第五百三十二夜 鷲谷七菜子の「藤映す」の句

 昨日は晴れわたった美しい朝だったので、急遽、29日の祝日に予定していた手賀沼の藤棚を見に行くことにした。国道6号線には、「県を跨いで他県に行かないでください」という趣旨の道路情報が表示されていた。
 そう言えばコロナ禍になって以降、茨城県内をドライブすることはあっても、他県までは1度も行っていなかった。だが、手賀沼の辺りであるし、すれ違うのはウオーキングとジョギングの人くらいであった。
 
 手賀沼の水生植物園の藤棚は、入口から直ぐに藤棚が正面の手賀沼の辺りの遊歩道まで続いている。ゆっくり歩くので100メートルも歩いているような気がしているが、50メートルくらいかもしれない。5月の連休が満開と聞いたが、今年はなんだか季節の進み具合が早いようだ。満開ではなかったが、充分こんもりした藤房が垂れている。
 
 まず、藤棚のトンネルの入口に佇ち、出口までの一直線を歩いてみる。手賀沼の湖面は、風が吹くたびに白く輝いている。鵜や鴨や鳰など水鳥のために木製の休み場があって、そこに黒鵜がずらり並んでいた。
 
 次はお目当ての写真撮影。スマホのカメラを藤のトンネルのアングルにしたり、藤棚を真下から見上げるアングルにしてみる。四角い竹組に藤の花房が絡みつき、その間から青い空が、藤の紫に染まったかのように、青紫の深い空が見えている。山を見上げたときの空の色も大木を見上げた空も、より深い紺青となるが、藤棚の空はたしかに紫がかっていた。
 
 今宵は、「藤」の作品を見てゆこう。

  滝となる前のしづけさ藤映す  鷲谷七菜子 『合本 俳句歳時記』角川書店
 (たきとなる まえのしずけさ ふじうつす) ▪わしたに・ななこ
 
 句意は、木から木へ幹を巻きつけながら横へ広がってゆく、谷間の山藤が、今しずかな流れの川面に映っている。だが、もう少し先には滝口が待ちかまえているのですよ、となろうか。

 「滝となる前のしづけさ」の表現にすごく惹かれていた。
 平成16年前の5月、私は生まれ故郷の大分県大野郡の伯母の家に母を連れて遊びに行った。その折、この光景を沈堕の滝で見ている。沈堕の滝を見た後、車が滝の上の道にかかったときだ。滝として落ちる前の川はゆったりした流れで、1枚の鏡のように岸辺の光景を映し出していた。
 その翌日、大分県から宮崎県へ抜ける山道では、左手に谷があり谷の向こう側には山藤がずっと咲き続いていた。谷底は深くて、車で走っていたので、川面に映っているところは見ることができていない。
 
 この2つの体験を思い出しながら、鷲谷七菜子氏の作品を読み解くことが何とかできた。

  ビロードの虻ビロードの白藤に  星野立子 『合本 俳句歳時記』角川書店
 (ビロードのあぶ ビロードの しらふじに) ▪ほしの・たつこ

 句意は、綻ぶように咲いたばかりの白藤の花びらは柔らかさとふくよかさのあるビロードのようだ。そこへ、よく見ればビロードのような柔らかな毛で覆われた虻が白藤にやってきて蜜を吸いはじめましたよ、となろうか。
 
 間近でよく見なければ、咲いたばかりの白藤の花びらの風合いや、虻の体毛の柔らかさには気づかないだろう。星野立子は、高浜虚子の次女。大正15年結婚の翌年に父虚子のすすめで夫吉人とともに俳句をはじめた、その最初の作が〈ままごとの飯もおさいも土筆かな〉である。
 
 掲句は、虻と白藤に見たのは「ビロード」という共通項であるが、なんという新鮮さ、優しさ、柔らかさであろうか。立子俳句は、心に浮かぶそのままが瞬時に五・七・五の調べとなっていて、流れるような調子の句であると言われるが、口に出してみるとつぶやきのように響いてくる。