第五百三十三夜 草間時彦の「浦島草」の句

    大菩薩峠          中里介山
   
 「峠」は人生そのものの表徴である、従って人生そのものを通して過去世、未来世との中間の一つの道標である、上る人も、下る人もこの地点に立たなければならないのである。ここは菩薩が遊化(ゆけ)に来る処であって、外道(げどう)が迷宮を作るの処でもある、慈悲と忍辱(にんにく)の道場であって、業風(ごうふう)と悪雨の交錯地でもある、有漏路(うろじ)より無漏路(むろじ)に通ずる休み場所である。
 凡そ、この六道四生(ろくどうししょう)の旅路に於いて「峠」を以て摂取し得られざる現われというのは一つもあるまい。
                  『中里介山全集』「大菩薩峠」より抜粋
   
 本日4月28日は小説家中里介山の忌日である。小学生の頃にはラジオで、テレビ時代になってからは、数々の連続ドラマになった『大菩薩峠』の「机竜之助」役市川雷蔵の「音無しの構え」の美しい剣術が蘇ってくる。
 
 『大菩薩峠』の、「峠」は人生の中の休み場所、という内容に惹かれた。大菩薩峠には何度も登山し、帰りには山野草1本を持ち帰って鉢で大事に育てていた、遠い昔の父を思いだした。

 今宵は、山中で見かける「浦島草」「蝮草(まむしぐさ」の句を見てみよう。

  浦島草夜目にも竿を延ばしたる  草間時彦 『新俳句歳時記』平井照敏編
 (うらしまそう よめにもさおを のばしたる) くさま・ときひこ  

 句意は、サトイモ科の浦島草は不思議な花の形をしていて、その先から1本の糸のようなものが垂れている。夜に見つけても、竿を延ばしていることがわかりましたよ、となろうか。
 
 蝮草と似ているが、1本の竿の如きものが垂れていることから、竿を肩に魚釣りに出かけてゆく浦島太郎を思わせ、「ウラシマソウ」の名が付いたという。
 山梨県清里に住む植物細密画家の野村陽子さんは、『細密画で楽しむ 里山の草花100』(中経出版社)の中で、文章担当のあらきみほに、次のようにお話しくださった。
 「ウラシマソウを描いていたとき、揺らすわけでもないのに、仏炎苞(ぶつえんほう)の先端の釣り竿のように垂れさがった部分が動くのよ。夜中などに、植物が動くと、少しドキッとするけれども、このような植物の生態を知ることも発見なので、植物と向き合っている時間はとても楽しい。」と。
 作者の草間時彦氏も、山中で見かけたウラシマソウに「竿を延ばしたる」と見てとったにちがいない。【浦島草・夏】

  まむし草蕊覗かむと指触るる  草間時彦 『カラー図説 日本大歳時記』
 (まむしぐさ しべのぞかんと ゆびふるる) くさま・ときひこ

 句意は、浦島草とよく似た仏炎苞のマムシグサ(蝮草)である。仏炎苞の中を覗いてみようと、指で苞の先をちょっと捲ってみたのですよ、となろうか。
 
 仏炎苞とは、ちょうど仏像の背後にある炎をかたどる飾りに似ていることが名の由来であるが、ミズバショウやザゼンソウにもある。花の頃は仏炎苞を捲らないと見えない。やがて花蕊は果実となり沢山の青い実を付けると、仏炎苞は枯れて破れてしまう。蝮草の名は、この仏炎苞にうっすらと線が入っている様子が蛇に似ているからだという。
 私が清里の林の中で見たのは、マムシグサだったと思う。竿は垂れていなかった。その後、つくば山へ吟行した時、山頂付近で赤く熟したマムシグサの果実に出合った。【蝮草・春】
 
 滅多に見つかることのないマムシグサを、春から秋までの姿を見ることができたのだ。