第五百四十夜 深見けん二の「夏来る」の句

 2021年の立夏は、5月5日。子どもの日であり端午の節句である。
 精神科医であり小説家のなだいなだの「火を盗め」の1部を紹介しよう。
 
    火を盗め   なだいなだ
    
 パパはお前たちに「盗め」という。しかしこれは至極まじめ話なのである。死んだ人間からであろうと、生きた人間からであろうと、その胸から火を盗め。人間は、他の人間の胸の中に燃えている鬼火のようなものを盗むことによって、はじめて生命を得るのである。ここで盗みは、はじめて素晴らしいものになる。しかし石炭や石油のようなものを他人から盗むかぎりにおいては、盗みはいとわしい。この地上に善人がいても、人類は滅びることをまぬがれぬであろうが、この種のぬすびとが絶えぬかぎり、精神は滅びぬであろう。(『日本の名随筆98 悪』より)
 
 なだいなだは、昭和4年生まれ。私たちの青春時代によく読んだ、当時の日本の現代作家に、なだいなだ、北杜夫、佐藤愛子、加賀乙彦などがいた。「その胸から火を盗め」は、読書にも通じるものがあって、軽やかなタッチのなかに真っ直ぐな心を感じたように思う。

 今宵は、「立夏」「夏来る」「夏めく」の作品を見てみよう。 
  
 1・雨雫草木に光り夏来る  深見けん二 『菫濃く』以後
 (あましずく くさきにひかり なつきたる) ふかみ・けんじ

 2・さざなみの絹吹くごとく夏来る  山口青邨 『繚乱』
 (さざなみの きぬふくごとく なつきたる) やまぐち・せいそん

 3・おそるべき君等の乳房夏来る  西東三鬼 『新歳時記』平井照敏編
 (おそるべき きみらのちぶさ なつきたる) さいとう・さんき
 
 先ず、「夏来る(なつきたる)」を考えてみよう。
 「立夏」の傍題「夏来る」や「夏めく」は、どのように春から夏へと季節が移っていくのだろうか。
 『徒然草』には、この雰囲気を「春はやがて夏の気を催し、夏より既に秋は通ひ、秋はすなはち寒くなり、十月は小春の天気、草も青くなり、梅も莟みぬ。」(第百五十五段)と、季節の推移をきめ細かに書いてある。

 1句目、雨後の雫が青々としてきた草木に宿り、その雨雫の光りは、季節がようやく夏になったという輝きですね、となろうか。この「春はやがて夏の気を催し」が、けん二先生の「雨雫草木に光り」という自然界の具体的な描写である。
 2句目、山口青邨の作品の「夏の気」は川面や湖のさざなみへ「絹吹くごとく」という細やかな優しさの描写によって捉えている。
 3句目、西東三鬼の「夏来る」は全く違う角度である。戦前は新興俳句の旗手であった三鬼であった。戦後は、オルガナイザーとして山口誓子の「天狼」を創刊した。無季俳句から誓子の影響を受けてじっくりと対象と向き合い「根源俳句」をえた。〈枯蓮のうごく時きてみなうごく〉〈おそるべき君等の乳房夏来る〉など、常に新しさへ挑戦した。「おそるべき君等の乳房」は、戦後の女性のブラウスやワンピース姿は、戦前とはがらりと変わり、堂々と胸を張って闊歩する姿でもあった。

 もう1つ「夏めく」を見てみよう。
 
  夏めくや庭を貫く滑川  松本たかし 『新歳時記』平井照敏編
 (なつめくや にわをつらぬく なめりがわ) まつもと・たかし

 句意は、鎌倉にあるたかし庵の広い庭には滑川が流れている。ようやく夏らしく煌めいてきましたよ、となろうか。
 「滑川」のことは、ホトトギス主宰高浜虚子が『松本たかし句集』の序の中で、次のように触れている。
 「たかし君の家の前面には滑川が流れてゐる。その畔にも竹藪があるし更にその前面にある山は一面に竹藪で蔽はれて居る。たかし庵の景色はこの竹藪によつて常に色づけられてゐると云つてよいのである。春は所謂竹の秋で黄色く衰へて居る、秋は所謂竹の春で青々と繁茂して居る、春雨の降る頃、五月雨の降る頃、秋雨の降る頃、又雪の降る頃になるとその面目は全く改つて居る。風のない日、風の吹く日などは更に趣が異ふ。(略)」
 
 「たかし庵」には、広い庭があり、滑川があり、竹藪がある。句会を催すときは庭を吟行する。また、桜の夜は、能役者の息子であるたかしは鼓を打ち、赤い毛氈の上で舞をしたという