第五百四十一夜 平井照敏の「新茶汲む」の句

 あっという間に5月1日から5日までのゴールデンウィークは終わってしまった。コロナ禍でリモートワークの家人たちは、家にいることは同じだが、仕事中は自室に籠もっているので私にとっては静かな日々であったが、まあ母親というのは何とこき使われることだろう! 
そうだ、姪から届いた福岡の八女茶を呑んで心を落ち着けよう。夫の方がお茶を丁寧に淹れてくれるのだが、ついでの小言が多すぎるから、夫のいない間がいい。

新茶の香り、これも初夏の感じを深くさせてくれる1つである。
 
 今宵は、「新茶」「古茶」の作品を見てみよう。

 1・新茶汲む空の上澄み汲むごとく  平井照敏 『新歳時記』平井照敏編
 (しんちゃくむ そらのうわずみ くむごとく) ひらい・しょうびん

 2・新茶汲むや終りの雫汲みわけて  杉田久女 『現代俳句歳時記』角川春樹編
 (しんちゃくむ おわりのしずく くみわけて) すぎた・ひさじょ

 3・金色の壺は新茶よ身ほとりに  山口青邨 『現代俳句歳時記』角川春樹編
 (きんいろのつぼは しんちゃよ みほとりに) やまぐち・せいそん

 先ず「新茶」。その年の新芽で作り、売られる茶が新茶、走り茶である。
 1句目、新茶を淹れるとき、まず注意することは湯を70~80℃に冷ますことである。お茶に甘みを感じる理由は、テアニンというアミノ酸成分を含んでいるからで、そのテアニンを抽出する適温が80℃だという。
 夫の父(舅)のお茶を淹れる姿は今も思い出すが、ゆったりと流れるようであった。にこやかな視線も手の動きも湯の温度とともにあるようであった。人数分の茶碗に少しずつ淹れている。
 掲句に出逢ったとき、「空の上澄み汲むごとく」の表現は、ああ、舅(ちち)もこのようにお茶を注いでいたことに気づいた。
 2句目、久女の句は、お茶を汲みわけている最終段階であろう。「終りの雫汲みわけて」という丁寧で且つ新茶ならではの汲み方である。
 3句目、金色の壺に贈られてきた新茶なのか、或は、極上の新茶は金色の壺に入れて書斎の身ほとりに置いてある新茶なのか、俳句や研究の原稿を書き終えた後など青邨ご自身が、丁寧に淹れてほっとした一時を過ごされるのであろう。 
 どの作品からも、新茶はこの季節ならではのものであり、特別なものであり、甘くまったりと淹れて楽しんでいることが伝わってくる。
 
 4・筒ふれば古茶さんさんと応へけり  赤松蕙子 『新歳時記』平井照敏編
 (つつふれば こちゃさんさんと こたえけり) あかまつ・けいこ

 5・侘びを知れ寂びを知れよと古茶の云ふ  相生垣瓜人 『蝸牛 新季寄せ』
 (わびをしれ さびをしれよと こちゃのいう) あいおいがき・かじん

 次に「古茶」。新茶が出ると前年の茶は古茶になる。陳茶(ひねちゃ)ともいう。
 4句目、「古茶さんさんと」の「さんさん」は「珊珊」であろうか。壺に入れた筒を振るとふると中の古茶がぱらぱらと鳴り出した。珊珊には、玉が鳴るという意味があるという。
 5句目、「侘び」「寂び」は、紀行文『笈の小文』の冒頭の「西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休が茶における、其(その)」貫通する物は一(いつ)なり。」は、芭蕉の芸術観の一節である。4人それぞれ芸術分野を異にしているが、貫通するものは、ジャンルを超えて存在する美であるのだと見る芭蕉である。芭蕉が「さび」の美を標榜したことと関係があるに違いない。
 相生垣瓜人は、阿波野青畝の「かつらぎ」、水原秋桜子の「馬酔木」同人。飄逸な作品は青畝譲りであろう。掲句の、「侘びを知れ寂びを知れよ」は、「陳茶(ひねちゃ)」ともいう「古茶」の枯淡の味わいを、よく知り尽くして飲みなさいと言っているようだ、と鑑賞してよいであろうか。