屠蘇つげよ菊の御紋のうかむまで 本田あふひ
鑑賞は次のようであろうか。
本田あふひ(ほんだあおい)は、ホトトギスの俳人。明治八(1875)年に、東京の坊城伯爵家に生まれ本田男爵家に嫁いだ生粋の華族である。華族の生活というのは天皇家と深く関わりのあるものだから、正月には菊の御紋のついた杯などの調度品の膳が並べられ、家人の皆に屠蘇が注がれてゆくのであろう。
屠蘇の順は、まず主人の本田男爵、あふひの杯にも注がれはじめた。菊の御紋が藍色に染めぬかれた白い杯は、なみなみ注がれるにつれて、底に描かれた菊の御紋は揺れだし、やがて天皇家の御紋である菊の花が、底から剥がれるようにふわり浮いて見えたのだ。
「屠蘇つげよ」とは、命令形ではなく、屠蘇が注がれるのを待つ気持ちの強さではないのだろうか。
本田男爵家では、屠蘇を注いだのは給仕人であろう。掲句は、あふひだからこそ詠めた優美な世界である。
もう一句、紹介しよう。
しぐるゝや灯待たるゝ能舞台 大正八年
大正三年に虚子たちとともに作った鎌倉能舞台のことである。設立メンバーの一人が本田家で、以来、虚子とあふひは能楽と俳句の交遊仲間となった。夫の没後はもっぱら俳句と能楽に親しみ、大正十一年ホトトギス同人に推され、以後家庭俳句会、大崎会、渋谷会、句謡会など守り育ててきた。だが、ホトトギスで巻頭作家になったことはなかった。
没後に出版された『本田あふひ句集』の序文で、虚子は次のように書いている。
「あふひさんが、一度ホトトギスの巻頭になりたいものだな、といはれたときに、私は
屠蘇つげよ菊の御紋のうかむまで
といふあなたの句がある。あなたは其一句の持主であるといふことが何よりも誇りではありませんか、と言つたことがある。」
俳句文学館で初めて、私は『本田あふひ句集』を手にした。表紙を開くと本田あふひの半身の肖像写真があり、文中から想像していた通り、美人というほどではなく男勝りと言われていた雰囲気が漂っている。誰からも姐御のように頼りにされ、慕われ、プライドが高く勝ち気、弱みは絶対見せない人のように見受けるが、人懐っこそうであるけれど、あふひの淋し気な眼差しが気になった。
頁を捲ると一面、あふひの大らかな蹟筆で書かれた「屠蘇つげよ菊の御紋のうかむまで」の代表作品に出逢った。