第五百四十八夜 高浜虚子の「薔薇」の句

 茨城県守谷市に越してから、まず夢中になったのは、現在「水海道風土博物館坂野家住宅」となった坂野家住宅と、その当主の自宅の広い雑木林の庭まるごと蔓薔薇が植えられた「坂野ローズガーデン」がある。5年間ほど通い続け、何組もの友人を案内した時期があった。その後、東日本大震災があり東京の友人とすこし遠くなった。今はコロナ禍でまたすこし遠くなった。
 久しぶりにネットで見ると、閉じていた「坂野ローズガーデン」が開園しているらしい。薔薇の盛りである。車だから行ってみようかな。

 「薔薇」の作品を探しながら「蔓薔薇」の句も探したが、歳時記には「蔓薔薇」は季題としてはなかった。私が「坂野ローズガーデン」で詠んだ句は全て蔓薔薇であったが、〈潜り戸やぶるぶる薔薇の雨弾き〉〈ぽつとりと太る黄薔薇の黄の雫〉のように、季題「薔薇」で詠んでいた。

 今宵は、「薔薇」の句を見てゆこう。

  薔薇呉れて聖書かしたる女かな  高浜虚子 『五百句』
 (ばらくれて せいしょかしたる おんなかな)
 
 虚子が喜寿を記念して編んだ句集に『喜寿艶』という自筆句集がある。帯には「喜寿にして尚匂ふ若さと艶を失はぬ永い俳句作品の中から、特に艷麗なる七十七句を自薦自書して、喜寿の記念出版にする。」とある。
 左ページに自筆の作品、捲ると裏のページに短い文章がある。
 「ふとした事で或女と口をきくやうなことになった。その女は或とき薔薇を剪つてくれた。そしてこれを読んで見よと云つて聖書を貸してくれた。さういふ女。」という文章である。
 
 序にかへてには、「阿蘇の乙女に送る歌」として次の一首が書かれていた。
  火の國の火の山裾の乙女子が泣きしと聞きぬ我心いたむ

 「ホトトギス」が六百号を迎えた記念に日本の各地を周り、各地の「ホトトギス」六百号記念俳句会に出席していたが、予定していた阿蘇には行くことができなかった。この歌は、虚子先生にをひと目お会いしたいと待ち望んでいた「乙女」のことを聞いて、阿蘇の俳人に送ったという一首である。女性の弟子であるが、「乙女」と詠っているところが虚子のフェミニストたる所以である。
 
 さて、「薔薇」の句に戻ろう。
 明治32年の句。正岡子規も病臥の状態であったが、句会をし指導していた。子規は、虚子の句の特徴を、草木を見る時も有情の人間を見るようであるとし、さらに、季題趣味と空想的な趣味、時間的俳句なるもの、を揚げている。
 このように、ゆとりある俳句は、碧梧桐の新傾向俳句運動が起こった時にも、戦後の様々な動きにも揺らぐことなく自らの俳句、花鳥諷詠詩の道、客観写生の道を貫くことができた。
 『喜寿艶』には、〈酌婦来る火取虫より汚きが〉などの句もあって、最初は女性蔑視のように感じられた。しかしどうやら違う。哀れがあり情も感じられる。なにしろ虚子は、女性たちを俳句の道に引き込んだ最初の人。人間をみな等しく見ている優しさがある。
 薔薇を剪ってくれ聖書を貸してくれようとする女性に、神を求めて必死に生きようとしている女を見た。しかも、他人に神を勧めるやさしさも見た。
 
 虚子の、妻への接し方、娘たちへの接し方のやさしさ。自らを病人を看護する運命かもしれないと言いながら子規も看取った。子規は虚子が看病すると安心しているようだと碧梧桐は言っている。杉田久女には随分と悩まされたかもしれないが、最終的には、『杉田久女句集』に序文を書いた。

  己れ刺あること知りて花さうび  高浜虚子 『六百五十句』
 (おのれとげ あることしりて はなそうび)

 句意は、薔薇の花は、刺をもっていることを薔薇自身がちゃんと心得ているのですよ、となろうか。
 
 刺って何だろう、と考えさせられた句である。刺はうっかり触ると痛いけれど、刺そのものが攻撃的になることはない。薔薇の花は、気品、愛、美などの意味があるが、いずれ薔薇の花そのものの矜持や誇りあっての気品であり愛であり美である。
 刺は、己を守るために備えてあるもので、薔薇はその力を十分に知って誇らかに咲いているのではないだろうか。
 
 人間も「刺」は、時には必要かもしれない。