第五百五十夜 高浜虚子の「無月」の句

 虚子の第2句集『五百五十句』は、歴史も大きく動き始める「その前夜」のごとく、俳壇においても大きな時代と言えようか。
 
 今宵は、昭和11年の後半の出来事を、作品とともに思い出していこう。
 
 
 1・欄干によりて無月の隅田川  『五百五十句』昭和11年 
 (らんかんに よりてむげつの すみだがわ)

 昭和11年10月1日、虚子63歳の作で「偶成」とある。
 句意は、橋の欄干にもたれて、空には月は見えないけれど、隅田川の川明かりに名月を感じていましたよ、となろうか。

 季題「無月」は、十五夜の晩に曇ってしまって名月が見えないことであるが、どこか名月という明るさも感じられる。虚子は隅田川の流れのひとところに、ぼーっと仄かな明るさを感じていた。
 掲句は、句会での作品ではなく偶成で、偶成とは、考え事をしているうちにふっと浮かんだ作品である。 【無月・秋】
 この句から、明治28年に詠んだ虚子の作品を思い出した。

 2・夕立やぬれて戻りて欄に倚る  『五百句』明治28年

 詞書に「子規を神戸病院より、須磨保養院に送りて数日滞在。」とある。
 子規を須磨保養院に送り届けて東京へ戻る日、虚子は子規から、自分の後継者になってはくれぬかと、1回目の打診をされたのだった。この時は、嬉しい気持ちもあったという。
 子規が退院し、上野の道灌山に呼び出されて、2回目の打診をされた時には、虚子はきっぱり断っている。
 
 その後、子規の弟子の双璧の碧梧桐に俳句を任せて虚子は小説の方に進みたかったが、碧梧桐の進んだ新傾向俳句に対抗するために、大正2年、虚子は子規の後継者として俳壇に復帰した。以来、大結社「ホトトギス」を率いている。
 昭和11年の「欄干によりて」は、明治28年の「欄に倚る」と似ている。
 虚子はおそらく、当時を、子規を思い出していたのではなかろうか。
 
 昭和11年10月1日は「ホトトギス」十月号の発行日。この日、虚子は人生の師である子規と心で向かい合っていた。
 そして、「ホトトギス」誌上で、虚子は重大な決断を発表した。
 虚子がそうしようと決断したのは、ずっと前であった。

 「ホトトギス」十月号の虚子消息には、次のように書かれていた。
 「本号は例に由り俳話を多数集録しました。其中に自から時論の帰趨を見得らるゝことゝ存じます。吾が輩(ともがら)に非ざる俳句界には、多少の議論が横行してゐるさうですが、其等は自から発生し、自から消滅する恰も病菌の如きものかと思ひます。黙つてほつて置けば、それ自身盛んに談論してやがて自滅して行くこと、古今軌を一にして居るのであります。(略)
 同人は五百号までにはもう少し増したいと思つて居りますが今回の処は小変動にとゞめて置きます。(昭和11年9月7日)」

 この消息の「小変動」は1頁全面の社告で発表された「同人変更」であった。すなわち、日野草城、吉岡禅寺洞、杉田久女の3人の同人除籍である。

 日野草城を例に、昭和10年前後の俳句界を見てみよう。

■「ホトトギス」同人を除籍
 昭和10年、日野草城は、昭和6年から9年までの作品が収められている第3句集『昨日の花』を刊行した。
 昭和6年、水原秋桜子は、虚子との写生観の相違から「自然の真と文芸上の真」の論文を「破魔矢」に発表して「ホトトギス」を退会し、「馬酔木」を主宰することになった。この秋桜子の行動が契機となって、新興俳句運動が起こったといわれる。
 昭和10年、草城が「旗艦」を創刊主宰した。
 東京では秋桜子の「馬酔木」が、関西では草城の「旗艦」「京大俳句」が中心となって、新興俳句の拠点となった。
また昭和10年というのは、山口誓子が、第2句集『黄旗』の刊行と同時に「ホトトギス」を離れて、秋桜子の「馬酔木」に参加した年である。
 こうしてみると、草城の『昨日の花』が昭和10年の刊行というのも、意味深く思われる。

 昭和6年、秋桜子の「馬酔木」に始まった新興俳句は、昭和10年のミヤコホテル論争を機として、秋桜子や誓子の有季定型派と、草城や西東三鬼や秋元不死男や高屋窓秋らの無季容認派に別れることになった。
 明治時代の河東碧梧桐の新傾向運動は、破調、ルビ付き、自由律などと俳句の容れ物を変化させるものであったが、昭和10年の新興俳句運動は五七五の定型を変えることはなかった。
 主な変化は俳句の内容であり、新素材、人生を自由に詠うことで、最も重視したのが新詩精神であった。無季容認派の草城たちは、季節の支配に関わりなく人生の諸事情を詩因としたのである。最初から季語に囚われて詠むことでなく、結果的に季語がある場合もあるとした。

 虚子は、草城のこうした動きに表立って反論することはなかったが、突然、昭和11年十月号の「ホトトギス」誌上で、吉岡禅寺洞、杉田久女とともに「ホトトギス」同人を除名した。

 この号の同人除名の決定が前もって知らされることはなく、草城は届いた「ホトトギス」をのんびり読んでいて、30頁目を捲ったとき初めて知ったという。

 昭和30年一月号「ホトトギス」により同人復帰となったときも、俳誌を見て初めて知ったという。晩年の病臥の草城を、虚子は見舞っている。
 草城の除籍の理由は、多くの問題を孕んだ「ミヤコ・ホテル」連作であったと、後に昭和33年三月号「玉藻」誌で、虚子は明らかにしている。