第五百五十一夜 高浜虚子の「雪」の句

 虚子の第2句集『五百五十句』は、昭和11年から15年までの5年間の作品が収められている。昭和11年は91句である。
 次の88句目の作品を紹介して、昭和11年は終えることにしよう。

 今宵は、「雪」の句である。
 
  雪の暮茶の時頼に句の常世
 (ゆきのくれ ちゃのときよりに くのとこよ)

 次の長い詞書がある。
 「十二月十日 大正五、六年頃か、鎌倉能楽堂にて「鉢木」を演ぜし時川越守男ワキを勤めくれたり。其後茶掛に句を所望せられたるに書きたる句を打ち忘れ居たるを近藤いぬゐ先頃川越の茶会に招かれ其軸を示されたるを覚え来れりとて教へくれたるもの。川越は久田家の茶の宗匠なり。」

 句意は、舞台は雪の降る夕暮で、ワキの旅の僧こと時頼を演じたのは茶人の川崎守男で、シテの常世を演じたのは俳人の私でしたよ、となろうか。

 大正2年、新生「ホトトギス」は緒に就いたばかりであるが、虚子はチブスの予後が悪く体調をひどく崩していた。
 健康のためということで虚子は本格的に能を習い始め、地元の鎌倉で謡をし、句会をした。やがて、翌大正3年4月、能楽堂建築では当代随一の、建築家で謡曲研究家の山崎楽堂をはじめ仲間たちと共に鎌倉能舞台を建設したのである。
 それが鎌倉能楽堂である。
 詞書にある、茶の宗匠の川越守男も宝生流の能楽師の近藤いぬゐも、能楽堂建設のメンバーであった。また俳句は、近藤ゐぬひは宝生流能楽者の会「七宝会」に所属していた。

 虚子たちは、大正5、6年の頃に自分たちで作った鎌倉能楽堂で、能「鉢木(はちのき)」を演じた。

 能「鉢木」の前段では、ある大雪の日、諸国遍歴の旅の僧が佐野常世の陋屋に一夜の宿を求める。暖を取ってもてなそうと、常世は大切に育てている梅の鉢木を裂いて燃やしている。
 シテが常世でワキが旅の僧。この時、常世は旅の僧に、鎌倉で戦があれば老体であるが勇んで駆け付けることを告げた。「いざ鎌倉」とは、「鉢木」の常世の台詞が語源だという。

 後段では、鎌倉に戦が起こり、常世が駆け付けると、そこに居たのは雪の日の旅の僧。じつは前執権の北条時頼であった。時頼は、約束を違えなかった常世に充分な報償を与えた。後段では、ワキは旅僧の仮の姿を解いた時頼である。
 ワキの旅の僧と時頼を演じたのが、茶の宗匠の川越守男。
 シテの常世を演じたのは、虚子自身であった。

 季題は「雪」。この雪は、能舞台の地謡の詞章によって現出された雪の世界である。能舞台には、能役者、囃子方、地謡が居るだけで、偽物の雪を降らせることもなく装置もないのだ。能舞台を観る私たちは、地謡やシテやワキの詞章に耳を傾け、囃子の音色に心を止め、シテとワキの非常に少ない動きに目を凝らす。
 そして、耳を澄まし、目を凝らしている観客の想像力によって、舞台には、「鉢木」の旅の僧を降り籠めてしまうほどの雪が眼前に降っていることになる。
 だとすれば、舞台に降る、実際には目に見えない雪であるとしても、季題として成り立つのであろう。

 中七下五の「茶の時頼に句の常世」は、句の解釈の糸口がどうにも掴めなくて困っていたが、資料集「新編『虚子五句集』語彙」(小泉洋一編)の中に、「茶の時頼」の語彙の説明を見つけることができた。
 「『茶の時頼』といふのは鎌倉の能楽堂で『鉢の木』を演じた時に茶の師匠の川越守男といふ人がワキの時頼を演じたのでそう云つたのです。」(「玉藻」研究座談会。湯浅桃邑談)

 この作品の「茶の時頼」と「句の常世」だけでは、ごく周辺の人にしか理解できそうにないほどの省略ぶりである。
 しかも、掲句が詠まれたのは、大正5、6年の頃に、鎌倉能楽堂で能「鉢木」を演じた直後のことで、20年前の作であった。
 虚子自身も、この作品をすっかり忘れていた。能楽師・近藤いぬゐが当時ワキを勤めた茶人川越守男の茶会へ招かれた折に、茶掛けに認められた句に出合った。いぬゐが、句を書き留めて持ち帰り、虚子にお見せしたという経緯の句であった。
 
 なぜ虚子は、20年も昔の句を『五百五十句』に入れたのか。
 入集した理由の1つは、省略の見事さと調べの見事さであろう。
 もう1つは、たった十七文字の中から、鎌倉能楽堂での能「鉢木」が蘇ってくるという俳句の力の不思議さであろうか。