第五百五十二夜 高浜虚子の「風花」の句

 虚子の第2句集『五百五十句』より、昭和12年の作品を紹介していこう。
 昭和12年には、盧溝橋事件を発端に支那事変(日中戦争)が始まり、ドイツではヒットラー政権下であった。世界中は、第二次世界大戦の大きなうねりに入ろうとしていた。
 同12年、虚子は、子規門で共に学び子規双璧と呼ばれた河東碧梧桐を亡くした。〈たとふれば独楽のはぢける如くなり〉は、碧梧桐への追悼句である。

 今宵は、「風花」の句を紹介しよう。
 
  日ねもすの風花淋しからざるや  『五百五十句』   
 (ひねもすの かざはなさみし からざるや)

 句意は、一日中ずっと舞いつづけている風花よ、そのように舞うのは、本当は淋しいからなのではないのか、となろうか。

 昭和12年1月2日、武蔵野探勝会の第77回目は新潟行であった。大正11年に新潟医科大学脳外科助教授となった中田みづほと、昭和7年に新潟医科大学法医学助教授となった高野素十が、新潟で暮らしている。この二人の強い要望で雪の新潟吟行が決まった。
 「武蔵野探勝会」は、武蔵野の面影を辿ることが目的の吟行会であったが、「武蔵野俳人の赴くところ皆これ武蔵野」と気炎を吐く人もあって、新潟行が決行された。

 新潟駅に着くと、みづほ、素十をはじめ、ホトトギスの俳人たちが待っていて歓迎を受けた。宿泊先の篠田旅館まで、車に乗らずに歩いて行こうと、風花の舞う万代橋(ばんだいばし)を渡ってぶらぶら歩き出した。

 宿では、入浴と食事の間に兼題の「風花」「炬燵」その他今日の嘱目合わせて5句、7時〆切という虚子先生のお触れが出た。「風花」は兼題であったのだ。 
 虚子は、宿までの間に眺めた、一日中舞っていたかのようにちらつく風花に「淋しからざるや」と存問した。

 当日の『句日記』より。
  浅き水流れて廣し雪の原
  日ねもすの風花淋しからざるや
  風花に新潟の町廣くして
  風花に神の弥彦は晴れて見ゆ

 冬の季題「風花」は、虚子編『新歳時記』に「晴天にちらつく雪をいう。尾根を越えてくる風にともなわれて降ることもあり、また、一塊の雪雲からもたらされることもある。」と、ある。
 嘉永元年の『季寄新題集』には「青空ながら雪のちらつくなり」とあって、雪の一片がつういと舞い降りてくる景はまことに美しく、語感も美しい。

 風花は北アルプスの尾根に降った雪が風にのり、アルプスの東側の地方にちらつく。 虚子は新潟で出会った風花に、数年後に疎開した長野県小諸で再び出会うことになる。昭和21年には、風花の作品が集中して詠まれている。

  いづくともなく風花の生れ来て  『六百五十句』
  溝板の上につういと風花が  〃      
  風花はすべてのものを図案化す  〃  
  風花の今日をかなしと思ひけり  〃 
  風花に山家住居もはや三年  〃

 3句目の「すべてのものを図案化す」の鑑賞はむつかしいが感覚としてはわかる。雪景色にも感じたことがあるが、辺りは、一枚の紗をかぶせたような景となる。
 風花の方が、空に舞う一片一片がはっきり見えるから、景は一層はっきり見えるのだが、どこか省略されて、単純化されて、メルヘンチックになる。
 深見けん二先生の「小諸百句鑑賞」(「春潮」連載)の、鑑賞がぴったりする。
 「谷内六郎の絵のような、絵画的、童話的で、でしかも風花ならではの句になっていることに興奮する。」

 虚子の作品を見ていると、同じ季題で、違った句を作るだけでなく、風花もそうであるが、何年もかけて同じイメージを追い続けている作品があることに気づいた。