第五百五十三夜 高浜虚子の「七草」の句

 第2句集『五百五十句』より、贈答句を紹介しよう。
 虚子は贈答句の名手といわれる。赤星水竹居が纏めた『虚子俳話録』の中で虚子は、贈答句のむつかしさを次のように述べている。
 「先生曰く。
  慶弔の句は、なかなか作り難いものです。いったい主観になりがちの上に俳句は歌のように物をかりていうわけにもゆかず、それに季が入るのでますますむつかしくなります。(昭9・1・23)」

 今宵はまず、高浜虚子の「七草」の句を見てみよう。

  七草に更に嫁菜を加へけり  『五百五十句』
 (ななくさに さらによめなを くわえけり)
  
 句意は、川崎家では、芹、薺、御形(母子草)、はこべら、仏の座、すずな、すずしろ、という七草に、もう1つ嫁菜という草が、七種粥に加わりましたね、となろうか。

 1月7日は、人日の日であり、七草の入った七種粥を食べて無病息災を祈る日である。この正月の目出度い日に、川崎利吉の息子の結婚式が行われた。
 季題の「七草」だけでも目出度いが、さらに、「嫁」の文字の入った「嫁菜」を1つ加えたことで七草が八という末広がりの数字になった。川崎家にお嫁さんがやってきたことへの祝意であるが、「嫁菜」はストレートで平明な表現であるがユーモアもある。一家の喜びがしっかり伝わってきて、見事なお祝い句となった。
 
 川崎利吉(かわさき・りきち)は後の川崎九淵のこと。明治7年、四国松山の生まれで、虚子とは小学校の同級生。能楽大鼓の名手である。明治32年、虚子の兄池内信嘉の勧めにしたがって上京、葛野流預りの津村又喜に師事した。
 やがて利吉は、葛野流宗家代理・宗家預りを歴任し、能楽界初の人間国宝となった。
 大正3年に虚子が鎌倉能楽堂を造った際の仲間であり、虚子の鼓の師匠でもあり、能舞台では囃子方として共に出演している。

■贈答句の名手

 虚子の贈答句集を見てみよう。

  春風や闘志いだきて丘に立つ
 (はるかぜや とうしいだきて おかにたつ)

 『五百句』と『贈答句集』に入集されているが、『贈答句集』に、この作品があることに驚いた。驚いたのは、大正2年、虚子が俳壇に復帰した時の句として有名だからである。
 「ホトトギス」誌上において、虚子は、1月号では「新傾向に反対する事」と高札を掲げ、2月号では「本誌は平明にして余韻ある俳句を鼓吹して俳界の王道を説かんと欲す」と述べ、3月号では「守旧派宣言」をした。このことは、近代の文芸思潮を俳句に持ち込もうとして伝統俳句を離れた碧梧桐の新傾向に対抗しての守旧派宣言である。
 掲句は虚子の心の消息であり、「余は闘おうと思つておる」と、「暫くぶりの句作」に述べたように、俳句界に復活するという強い決意が現れている。

  初夢にまにあひにける菊枕
 (はつゆめに まにあいにける きくまくら)

 「昭和7年1月6日 菊枕をつくり送り来し小倉の久女に。」という詞書がある。
 昭和11年10月号の「ホトトギス」誌上で日野草城、吉岡禅寺洞と共にホトトギス同人を除名された久女であるが、昭和7年は、主宰誌「恋衣」を発行したり、ホトトギスで巻頭になるなど絶頂期にあった。久女が〈白妙の菊の枕をぬひ上げし〉と詠んでいたように、菊枕を手作りして虚子に贈ったのもこの昭和7年の絶頂期であった。
 しかし、この虚子の返歌は、昭和11年11月発行の『句日記』にも載せられていない。

  たとふれば独楽のはぢける如くなり
 (たとうれば こまのはじける ごとくなり)

 「昭和12年20日 『日本及日本人』碧梧桐追悼号。碧梧桐とはよく親しみよく争ひたり。」という詞書がある。
 季題「独楽」が虚子と碧梧桐の関係をじつに的確に捉えている。『五百五十句』の昭和12年にあるので、詳しくはそこで鑑賞したいと思う。

  牡丹の一弁落ちぬ俳諧史  「七百五十句」
 (ぼうたんの いちべんおちぬ はいかいし)

 「昭和31年5月 松本たかし死す。」という詞書がある。
 崩れんとして危うく止まる緊張の間(あわい)に美が存在するたかし特有の世界は、『松本たかし句集』『鷹』『野守』『石魂』の戦前の作品に多く、戦争と共に香りが減ったように感じる。たかし俳句の特長は、中世の王朝貴族の没落や牡丹の崩落などに見る高貴さと哀しみの誇りの高さであろうか。
 この「牡丹の一辨欠けぬ俳諧史」の弔句を、虚子は追悼として寄せた。