第五百五十六夜 高浜虚子の「夏山」の句

 今宵は、虚子の『五百五十句』の昭和12年より山中湖で過ごした夏の句を見てみよう。

  夏山やよく雲かかりよく晴るる  『五百五十句』
 (なつやまや よくくもかかり よくはるる)
 
 昭和12年8月25日、箱根町、箱根ホテルでの作。
 句意は、夏の山というのは、つぎつぎ雲がかかるかと思えば、すぐに晴れてきますよ、となろうか。

 掲句の季題は「夏の山」。小学校や中学校では、夏休みには箱根とか那須高原で林間学校校があった。林間学校の際には、必ず「山の天候は変わりやすいから雨具の用意をしてきなさい」と言われた。たしかに山は、雲が次から次に湧いていた。雲の合間に青空が見えていたり、必ず雨になるわけでもなく、晴れることも多かったことをはっきり覚えている。

 『句日記』によると、虚子はこの年の8月17日から25日頃まで富士山麓で夏を過ごしていた。見てみよう。
    
 1・目のあたり夏雲起る山の荘  8月17日、富士山麓山中湖畔、新田別荘。
 2・落葉松に風なき時は稍暑し  8月19日。同、ニューグランドホテル。
 3・夕やけのさめて黑ずむ山の湖  8月23日、箱根町、箱根ホテル。
 4・夏山やよく雲かゝりよく晴るゝ  8月25日、同箱根ホテル。
 
 この4句目が掲句である。
 虚子が山中湖に来た目的は、昭和16年刊行された『新選ホトトギス雑詠全集・春夏秋冬新年全九冊』の選句のためであった。
 昭和12年はニューグランドホテル、13年は新田別荘隣家の一間、14年は山中ホテル、昭和15年は虚子山盧(さんろ)を建築して、虚子は同集選句冬の部を完了させた。
 その後、昭和17年まで夏を過ごした当時の虚子山魔は、草ぶきの農家風の建物であった。だが築後3年の昭和17年の冬に、陸軍の演習で投下された照明弾が命中して焼失してしまった。その後は隣地の古小屋を修復し、「虚子山廬」は「老柳山荘」と呼ばれるようになった。
 
■戦後

 戦後は、昭和26年から再び虚子の夏の老柳山荘滞在が始まった。
 星野立子編『虚子一日一句』を見てみよう。

 5・山の月も久しぶりなり戦さありし  昭和26年7月27日
 (やまのつきも ひさしぶりなり いくさありし)

 「昨日より山中湖畔を下り、山慮滞在、稽古会。戦後はじめて来たのであった。草木は屋根を覆ふまでに延び、家の中も雨漏りしてゐる処があり、壁はよごれ襖は破れていた。掃除をし兎に角第一夜を明した。」(立子記)
 
 「ホトトギス」の「稽古会」とは、虚子が小諸に疎開していた昭和22年、戦地から帰還した上野泰が虚子や立子の胸を借りて連日句会したことに始まる、若者を育てる夏の稽古会であった。昭和25年夏から、上野泰代表の東の「新人会」と波多野爽波代表の西の「春菜会」の若いメンバーの稽古会が始まり、鎌倉虚子庵、山中湖畔虚子山盧、千葉県鹿野山神野寺で行われ、昭和32年の夏まで続けられた。

 6・老柳に精あり句碑は一片の石  昭和26年7月28日 
 (ろうりゅうに せいありくひは いっぺんのいし)

 「一日二日とたつにつれて、心の落ちつきも出た。目に入るものはみな俳句となった。心の動きもみな俳句となった。代る代るに集って来る句会の人々を日々迎えて父は元気になって行った。」(立子記)
 
 この句碑は、虚子が山中湖に山盧を建築した時に手伝いに来た人たちと作った「新蕎麦会(しんそばかい)」の発案で建てられたという。作品は、『ホトトギス雑詠全集』のための選句を終えた昭和17年作の〈選集を選みしよりの山の秋〉である。
 
 20年近く前、「花鳥来」の田中禮子さんの山中湖の山荘へ招かれた。不思議な御縁で、禮子さんのご主人は私の高等部時代の担任の恩師であった。ということで、話は弾み、山中湖中をベンツで案内してくださった。
 虚子の老柳山荘に着いたときは、夕方で、庭から山中湖が木立の間から見えていた。老柳山荘の室内に入ることはできなかったが、庭にある句碑を探し当てることはできた。横には楊柳が植えられ老柳となっていた。
 6句目にあるように、たしかに、句碑は「一片の石」で小草に半分は埋もれそうな小ささであった。
 
 虚子の「夏山」は、若者たちとの夏の稽古会の場である山中湖畔の虚子山廬から眺める富士山であった。