第五百五十八夜 高浜虚子の「落花生」の句

 今宵も、『五百五十句』の昭和12年より作品を紹介しよう。

  落花生喰ひつつ読むや罪と罰
 (らっかせい くいつつよむや つみとばつ)

 昭和12年10月16日。発行所例会。丸ビル集会室。虚子64歳。「落花生」は兼題であろう。

 句意は、ピーナッツをぽりぽりと囓りながら読んでいるのは、ドストエフスキーの『罪と罰』ですよ、となろうか。
 
 壮大な長編小説を読みこなせる時期は、多くの人にとって学生時代である。勉強はしなくてはならないが、まだ人生に責任を負っているわけではない時代である。そして、本ばかり読んでぐうたらに過ごしているようにみえた時間こそが、大人になって思い返すと、じつは大切な思索の時間となっていたことに気づくこともある。
 
 ドストエフスキーやトルストイは、難解で、1つの小説が何巻分もあったりする。しかし壮大なロシアの風景があり、歴史があり、貴族社会の崩壊の中でのロマンスがあり、堂々巡りする若者の哲学的な苦悩がある。読書は、豊かな想像力を身につける大いなる力となり、想像力というのは、苦しみや悲しみを乗り越える時の大きな力となる。
 
 私が、春休み、夏休み、冬休みに、広縁に置かれた籐椅子に、食事時間以外は日がな一日を読書していた筆者の私の体験である。トルストイの『戦争と平和』『アンナ・カレーニナ』、シャーロット・ブロンテの『ジェイン・エア』、エミリー・ブロンテの『嵐が丘』などの恋愛小説であった。一気に読んだのはアメリカの『ゴッド・ファーザー』。半生をかけて書いたというプルーストの『失われた時を求めて』は、1巻目の『スワン家の方へ』で頓挫。だが、こうした名作は後から映画作品によって、より重層的に蘇ってくるからうれしい。

 ドストエフスキーの『罪と罰』は、じつは高校時代に何回もチャレンジしたが、貧乏学生で大学を退学となった主人公のラスコリニコフが金貸しの強欲で狡猾な老婆を殺してしまった犯罪を正当化しようとする論理が理解できなくて、多分、読み終えていないかもしれない。

 長編小説のおつまみは、ピーナッツとかお煎餅とか。噛めば音の立つ食べ物が、うまい具合に脳に刺激を与えてくれるのだろうか。
 掲句に一瞬で納得したのは、季題が「落花生=ピーナッツ」であったからであった。難解なドストエフスキーの『罪と罰』を読みつづけ、読み終えるにはピーナッツは不可欠な存在かもしれない。まさに「季題が効いている」作品となった。

 季題「落花生」の名前の由来は、そのユニークな実の付き方からきたもの。夏に地上で黄色い花が咲き、花の「子房(しぼう)の柄」が下方の地面に向かって伸びてゆき、やがて秋には、土の中で実を結ぶ。
 マメ科の落花生は南米原産で、日本には中国から渡来した。「南京豆」とも呼ぶ。