五百五十九夜 高浜虚子の「薄紅葉」の句

 昨日5月23日の日曜日、コロナワクチン1回目の摂取をした。テレビでもネットでもワクチン体験者の声が寄せられていた。注射は大っ嫌いで恐怖症、インフルエンザのワクチンはこれまで受けていない。遠い昔に天然痘のワクチンを受けて、摂取痕はうっすらと上腕に残っている。
 コロナ菌という未知の菌に罹るのは嫌だなあと思った。茨城県守谷市市役所に申し込むと繋がった。たぶんスムースに決まった方だと思う。
 
 ワクチン摂取は午後の4時半。手続きをし、恐る恐る腕を出した・・、今までのどの皮下注射よりも痛くなかった。看護師さん、お医者さん、待合室の老人方(最初は後期高齢者からの摂取なので・・)に、「ぜーんぜん、痛くなかったですよ!」と言って帰宅した。
 真夜中までは何ともなかった。だが、寝て暫くすると、恐れていた「疼痛」が始まった。腕が重くて痛くて・・! 夫は、「あたりまえだろう! 病原体を体内に入れたのだから、症状は出るさ!」と、相変わらずちっとも優しくない! 明け方が1番きつかったが、朝のコーヒーを飲み終わるころには気にならない程度の痛みになっていた。

 今宵もまた、虚子の『五百五十句』より昭和12年の句をみてみよう。
 11月3日。京都牧野滞在。光悦寺に行き、祇王寺を訪ひ嵐山に遊ぶ。

 1・智照尼は昔知る人薄紅葉           〈今も亦一時雨あり薄紅葉〉
 (ちしょうには むかししるひと うすもみじ)
 
 句意は、智照尼は、芸妓として有名であった昔に知っていたひと。祇王寺の紅葉もうっすら色づいてきましたよ、となろうか。

 智照尼は、当時の京都祇王寺庵主で高岡智照尼のこと。12歳で大阪の宗右衛門町の置屋に預けられ、13歳で水揚げされ、大阪でも後の東京でも、超売れっ子芸者となり、結婚し離婚し、女優業もし、瀬戸内寂聴の『女徳』のモデルになり、女の道のめくるめく半生を送った後、尼僧となった人である。
 
 現代でもあるのかもしれないが、とくに昔の、芸者の侍る料亭というのは政界や財界や軍関係の会合に利用されていた。中七の「昔知る人」の措辞から、大阪時代か東京時代か、かつて宴席で会ったことがあることがわかる。虚子も「ホトトギス」の祝いの会や、弟子筋の句会や会合で料亭に招かれることもあったし、芸者仲間にも俳句の弟子が生まれていた。智照尼が「ホトトギス」で俳句を学び始めて虚子に師事するようになったのは、芸者を辞めて、仏道修行を始めた頃であるという。
 
 智照尼は昭和11年の7月に京都祇王寺の庵主になっており、虚子が智照尼に会ったのは、本当に久しぶりであったと思われる。
 季題は「薄紅葉」。虚子編『新歳時記』には「紅葉し始めてなお薄いのをいう。やがて真紅に染まる色を予想させながら、薄く色づいた紅葉にはそれなりの風情がある。」とある。
 掲句では、白頭巾と墨染の衣に身を包んだ智照尼の真紅の紅葉を内に鎮めている現在の姿を、虚子は「薄紅葉」と捉えているのではないだろうか。
 
 もう1句、虚子が小諸でまだ疎開を続けていた昭和22年10月11日、土曜会での作品に次の句がある。どのように1句目と関わっているのか、暗示的かもしれないとも感じたので、紹介してみよう。
 
 2・蔓もどき情はもつれ易きかな  『六百五十句』
 (つるもどき なさけはもつれ やすきかな)
 
 『喜寿艶』にこの作品のことが書かれている。
 
  智照尼は云ふのであった。「句日記」で、蔓もどき情はもつれやすきかな、といふお句を拝見致しました。・・情はもつれやすきかな、つて、ほんとうに、知つてゐらつしやるお言葉だと思ひました。」低い、ひかえめな、聲で智照尼はさういつて、
 「・・やつおあり虚子先生のやうなお方でなければ・・」
  といふやうに言葉をにごして、それから笑つた。(京極杞陽の「智照尼」といふ文の一節)