第五百六十夜 高浜虚子の「爐(ろ)」の句

 19世紀の終わり頃、日本では江戸時代の終り頃から、世界は帝国主義の時代に入り、イギリスを初めとした列強国はこぞって植民地政策を執りはじめた。
 中国と世界の列強国との戦いは長い。日本と中国、日本と朝鮮、日本と世界の列強国の戦いは、鎖国政策をとっていた日本が世界と戦うのは明治時代になってからである。
 次に簡単に羅列してみたが、虚子の時代はほとんど背後に世界との戦争があった。

■世界との戦争
 明治27年に始まった日清戦争では、翌28年に正岡子規が、病弱であるにも拘わらず強く願って出征した。この時は子規が大連に到着した時には、講和条約が締結されたため、直ぐに帰還した。
 明治37年には、日露戦争があった。大連のある遼東半島は日本軍が勝利を収めた。
 明治43年には、日韓統合があった。
 大正3年には、第一次世界大戦がはじまった。日本は日英同盟を結んでいたが、実際はヨーロッパの戦場には行っていない。
 昭和6年には、満州事変が勃発する。
 昭和11年には、上海事変が起こる。
 昭和12年には、支那事変が起こり、やがて日中戦争となる。
 昭和16年には、真珠湾攻撃から第二次世界大戦へ突入する。
 昭和20年、ポツダム宣言を受諾して、日本は終戦となる。

 今宵は、昭和12年の起こった支那事変の3句を紹介しよう。
 「12年12月9日。東京朝日新聞社より南京陥落の句を徴されて。」の前書がある。虚子64歳。
 
 1・砲火そそぐ南京城は爐の如し
 (ほうかそそぐ なんきんじょうは、ろのごとし)  

 2・かかる夜も将士の征衣霜深し
 (かかるよも しょうしのせいい しもふかし) 

 3・寒紅梅馥郁として招魂社
 (かんこうばい ふくいくとして しょうこんしゃ)  

 1句目の句意は、日本軍による砲火によって南京城は、溶鉱炉のように赤々と燃えていますよ、となろうか。【炉・冬】

 昭和12年7月7日に盧溝橋事件に始まったと言われる支那事変は、12月13日に南京城は陥落し、中国軍を率いた蒋介石は台湾へ逃げた。
 虚子が、東京朝日新聞社より南京陥落の句を徴されて掲句を詠んだのは、陥落前の、12月9日であるから、すでに戦況は決着がついていたのだろう。
 広大な南京城が炎上している句で、戦勝の気持ちを籠めている。

 2句目の句意は、このような夜も、将校や兵士は戦場に行くときの服装のままです。霜は深く寒いことですよ、となろうか。【霜・冬】

 「かかる夜も」とは、南京城が陥落して日本軍が戦勝した夜のことだが、将校も兵士たちも戦場に行くのと同じ服装のままに、軍服を着ているのである。「将士」は将校と兵士のこと、「征衣」は軍服のこと。常に緊張していなくてはならないのが軍人であるのだと思った。
 戦っている軍人への感謝の気持ちを詠んだものであろう。

 3句目の句意は、寒紅梅が咲いて辺りにはよい香りが漂っています。国家のために戦没した人の御霊を祀っている神社ですよ、となろうか。【寒紅梅・冬】

 「招魂社」は、明治維新前後およびそれ以後、国家のために殉難した者の霊魂を奉祀した各地の神社である。東京招魂社は明治12年に靖国神社と改称され、地方の招魂社は昭和14年に護国神社と改称されている。
 この3句目に虚子は、戦没者を慰霊している銃後の日本を詠んだ。折から寒紅梅が咲いており、護国神社は寒梅の香に満ちて、戦没者の霊魂を慰めていることを詠んでいる。

 新聞社から求められた時には、こうして、虚子は戦争に行っている人たち、戦没した人たちのことを俳句に詠んだ。
 『虚子消息』とは、俳誌「ホトトギス」の後記のようなものだが、昭和12年九月号の注として「支那大陸に出兵している俳人諸兄に対して銃後の心使いといふものを虚子は常に忘れていなかった。」と、虚子の長男年尾の言葉が添えられていた。
 
 今年は戦後76年目であり、太平洋戦争に突入して80年目となる。これほど長く戦がなかったことは江戸時代以来のことである。