第五百六十七夜 高浜虚子の「蛇」の句

 蛇は、爬虫綱有鱗目ヘビ亜目に分類される爬虫類の総称。日本では、青大将(アオダイショウ)や赤楝蛇(ヤマカガシ)や縞蛇(シマヘビ)、毒蛇に蝮(マムシ)がいる。

 見かけから蛇は好きになるという動物ではない。75年生きてきて、動物園以外で実物の蛇に出合ったことは2回。
 最初は小学校の夏休みの修学旅行で那須高原へ行った時。小さな蛇だったが、男の子が尻尾を捕まえてグルグル回しながら女の子を追いかけていた。
 2度目は、3年を過ごした長崎師の山の中腹にあった借家に戻る時。幅の狭い長い石段の途中に蛇がトグロを巻いていた。眠っているのかじっとしている。進むにも回れ右して階段を降りるにも勇気が要る。どうぞ起きませんように、と祈りながらそっと前に進んだ。あの日の石段の果てるまでの長さは今も忘れていない。
 
 外観から、きらわれ、おそれられているが、日本の蛇の多くは鼠を食べるなど、人間にとって有益なこともある。顎の関節がゆるくなっていて、下顎をのばして、自分の体より太い動物を飲み込むことができる。作例にはなかったが、蛇はまぶたがなく眠るときも目は見開いたままだという。
 
 今宵は、苦手な季題ではあるが「蛇」の作品を見てみよう。

■虚

 1・蛇逃げて我を見し眼の草に残る  高浜虚子 『現代俳句歳時記』角川春樹編
 (へびにげて われをみしめの くさにのこる) たかはま・きょし

 2・蛇よりも殺めし棒の迅き流れ  鷹羽狩行 『蝸牛 新季寄せ』
 (へびよりも あやめしぼうの ときながれ) たかは・しゅぎょう

 1句目、句意はこうだろうか。草叢に見つけた蛇と一瞬だが目を合わせた。蛇は忽ちするすると逃げたが、虚子には蛇の眼がいつまでも草の上に残っているように感じられた。この眼は「眼球」。蛇の眼球が、蛇の眼から落ちたかのように草に残されていると感じたのであるが、勿論錯覚であり、怖いものや薄気味悪いものを見てしまった心理状態の残像と言ってもいいかもしれない。
 だが、人に嫌われ執念深いことを「蛇の如し」と言うことがあるが、蛇はそうした性を持つことも含んでいるようの思われる。
 こうしたことは起こりうる。そして、丁寧な客観描写による詠み方だからこそ、錯覚や残像を伝え得たた作品となった。

 2句目、句意は、蛇よりも、蛇を殺した一本の棒切れの方が、川の流れにのって素早く追い越していきましたよ、となろうか。蛇には命の重さがある。一方、蛇の「命」を殺戮した棒は木の切れ端という軽い「もの」である。「迅き流れ」にのったのは軽い棒だが、鷹羽狩行氏は、むしろ蛇の命の重さがゆったりと流れてゆく姿に想いを寄せているような気がしている。

■実

 3・ぶらさげて青大将の長さ見す  成瀬正とし 『ホトトギス 新歳時記』
 (ぶらさげて あおだいしょうの ながさみす) なるせ・まさとし

 4・全長の定まりて蛇すすむなり  山口誓子 『現代俳句歳時記』角川春樹編
 (ぜんちょうの さだまりてへび すすむなり) やまぐち・せいし

 5・解体の家より蛇の出て行けり  西本紅雨 『ホトトギス 新歳時記』実
 (かいたいの いえよりへびの でてゆけり) にしもと・こうう

 3句目、青大将の長さは、1mから2mほどで、鼠を食べることから人家の中あるいは近くに棲んでいる。掲句のように悪戯っ子に捕まってしまうこともある。作者の捕えた蛇は大きかったのだろう、自分の強さを仲間に誇示したくて意気揚々とぶらさげて見せている。
 
 4句目、寝ている時は蜷局を(とぐろ)を巻いているが、移動をするとなると、するすると蜷局を解き、やがて蛇は全長となってするすると滑るように動きだすのだ。「全長の定まりて」から、一本の長さを見せた蛇の姿が見えてきた。
 
 5句目、古い家には蛇が住んでいるというが、鼠もいたのだろう。いよいよ古家は業者によって解体されることになった。壁が壊され、屋根が壊されるなかから蛇が慌てたようにするすると出てきた。「出てきた」でなく、「出て行けり」と表現したことで、蛇はこの古家は用無しだとばかりに堂々と出て行ったという視点がすばらしい。

■神の使い

 蛇は、古代インドにおいて、弁財天の使いとされ、中でも白蛇は弁財天の化身と言われ、高貴で、とても神聖な存在である。 というように、多くの分野の神として信仰されている。