第五百七十一夜 鈴木真砂女の「蛍の夜」の句

 俳句を始めて数年後の6月、どうしても蛍を見たくて蛍の句を作りたくて、誰彼と誘ってみたが、遠方のことでもあるので断られてしまった。あれこれ調べていると、東京椿山荘で「蛍の夕べ」があるという。椿山荘ホテルのレストランでの夕食付き。父と娘を誘った。
 日本酒を飲みながら待つ蛍の夕べは、日本庭園へ下りてゆく頃には父はすっかりご機嫌に酩酊している。赤い橋を渡ると既に蛍は飛び交っていた。源氏蛍だったと思う。大ぶりの豊かな明るさを灯しながらゆうらりと飛んでゆく。いつの間にか蛍とともに園内を一周したようだ。
  天国はこんなにきれい蛍の夜   みほ
  いつぴきのほうたるついと父の腕  〃
 
 この蛍鑑賞会は、各地から大量の蛍を捕獲するために自然の生態系が破壊されると環境保護団体から避難され、ついには中止となったという。私たちも2度目に行きたいと思った時にはなかったから、贅沢な一夜であったが良い思い出となった。
 
 今宵は、「蛍」の作品をみてみよう。そろそろ飛ぶ季節になった。

■愛と死

 1・死なうかと囁かれしは蛍の夜  鈴木真砂女 『現代俳句歳時記』角川春樹編
 (しのうかと ささやかれしは ほたるのよ) すずき・まさじょ

 句意は、ある時、つき合っている男性から「死のうか」と囁かれたことがあったが、それは蛍の飛び交う夜でしたよ、となろうか。
 
 鈴木真砂女は、幾つもの恋をした。結婚した男は賭博に躓いて別れ、実家では、家業の旅館を継いだ姉の死により家業のために義兄と結婚するが、真砂女は去る。次に恋した男が、作品の男性で家庭持ち故に結婚は出来ない。去ることも引くことも出来ない男性は真砂女に「一緒に死んでくれ」と言ったのだろう。
 
 私が鈴木真砂女にお会いしたのは、とある俳句結社のパーティ。着物姿の小柄な人。もうお若くはなかったが、小さくて髪をきりっと束ねて美しい人であった。
 「死のうか」などと、誘われたことはないなあ。

 2・死なば死蛍生きてゐしかば火の蛍  中村苑子 『俳句・背景8 私の風景』 
 (しなばしぼたる いきていしかば しのほたる) なかむら・そのこ

 句意は、死んでしまえば死んだ蛍だが、生きていれば、炎のごとき火の蛍となるであろう、となろうか。
 
 蝸牛社の『俳句・背景8 私の風景』に書いてくださったが、勿論、中村苑子は全てを説明したりはしていないが、その1部を紹介してみる。文中の「高柳」は、後半生をともにした高柳重信のこと。3行ないし4行書きの多行書きの俳句を提唱・実践し、金子兜太らと共に「前衛俳句」の旗手であった。
 
 高柳が急逝して1年あまりが過ぎたころ福山市の在の山寺に住んでいる友人から、「蛍を見にこないか」と誘われた。そこは平家谷と呼ばれて、むかし平家の落人(おちうど)たちが住んでいたところだという。(略)
 その夜更け、にわかに烈しい雨音に目が覚めたが、やがて静かになり、友人に促されて障子を開けると、目の前に、幾千とも知れぬ青い火が点滅している。その青い蛍の群れは、手の届く近さから遠く見える竹藪のあたりまで何層にも重なり、この世のものとも思えぬ妖しく哀しい乱舞をくり拡げている。折から雲の切れた中天には月が青白い光を放って――。この光景に私は胸が高鳴り涙が出てきたが、なぜかこの平家蛍の中に、高柳の魂の蛍が交じっているような気がして、思わず両手を青い火のなかに泳がせているのだった。
 
 苑子の俳句からは、「死」のイメージを強く感じる。幼くして父の死、見合いの相手の死、最初の夫の戦死など、若い頃から死は身近であったためであろうか。
 『私の風景』の最後のページに、何故俳句を書かずにはいられないのかという苑子にとっての俳句の存在理由が「荒れる魂を宥(ゆる)めるため」と、記されていた。死への不安・恐怖、亡き人への贖い、などがない交ぜとなって荒れる魂を、真正面から凝視(みつ)め、表現することによって、苑子の心の緊張は宥められるのであろう。