第五百七十二夜 高浜虚子の「虹」の句

 虚子の最晩年の弟子である深見けん二先生に出合ったのは偶然であったが、「花鳥来」で虚子研究をする中で、虚子の俳句だけでなく小説も読むようになった。一番に惹かれたのが『虹』。
 大学時代、私は友人と金沢旅行をした折に、虚子の小説の舞台となった地とは知らずに東尋坊や三国港を訪れていた。
 私はその後、『虹』の一文を書くために鎌倉を訪れた。
 鎌倉寿福寺の墓地の奥には崖を削った矢倉群がある。「やぐら」は身分の高い人のお墓のことで、そうした源実朝・北条政子の矢倉の続きに虚子の矢倉がある。虚子の矢倉には真ん中に虚子のお墓、両脇には白童子(虚子の四女・六(ろく))と紅童子(五女飯島晴子の娘・防子)の小さなお墓と、3つが並んでいる。
 この辺りに「虹」の主人公となった森田愛子のお墓があるはず、と見回すと、整然と同じ向きに置かれた中に愛子の黒曜石のお墓だけが、虚子のお墓へ向けて斜めに建っている。
 森田愛子は虚子よりもずっと早くに亡くなっているので、この向きで建立することは生前に伊藤柏翠から頼まれていて、虚子は了承していた。
 
 今宵は、高浜虚子の小説『虹』となった、三国と小諸での作品をみていこう。

■俳句とともに生まれた物語

 『虹』は、「虹」「愛居(あいきょ)」「音楽は尚ほ続きをり」「小説は尚ほ続きをり」から成る4部作である。
 主役の愛子のこと柏翠のこと三国のことを、2作目「愛居」(『現代日本文学全集66 高浜虚子集』筑摩書房)の巻末に、虚子は次のように記している。
 「越前の三国の或富豪の外腹に、愛子という娘があつた。鎌倉の七里ヶ浜の病院に長く入院してゐた。その頃に柏翠といふ俳人が同じその病院に入院してゐて、俳句を作り入院患者に教へてゐた。その中に愛子もゐた。二人は自然に親しくなつて行つた。二人は連れ立つて私の處に来た事もあつた。愛子は退院して三国へ帰つた。柏翠も退院して三国へ行つた。愛子の生みの母なる人は、もと芸者であつた人で、三味線も踊も達者な人であつた。別に一戸を拵へて貰つて裕福に暮してゐた。このような関係の下に、この「虹」といふ一連の小説(?)ははじまつてゐるのであつた。」
 文中の(?)は、虚子自身が付したものである。『虹』は写生文か小説か、という意味の「?」だ。

 昭和18年11月15日、虚子は、伊賀で行われる芭蕉二百五十年忌に参列するための関西旅行の途次、故郷の三国に帰っている病弟子の愛子を初めて見舞った。一方柏翠も、三国へのご来遊を熱心に虚子に薦めていた。
 
  九頭竜の吹雪をめでゝ娘は住めり  『句日記』
  川下の娘の家を訪ふ春の水  『六百句』
 
 18日、愛子たちは中山温泉の吉野屋での句会に参加した。句会後の宴会で、かつて三国芸妓として鳴らした愛子の母が唄い踊ると愛子も続いて踊りはじめた。母の芸の見事さと愛子の可憐さに、虚子は思わず声を挙げて泣き出してしまった。「虹」のメイン場面だ。70歳の虚子が何故声を挙げて泣いたのか、これは、もう少し後に考えてみる。
 
  不思議やな汝が踊れば吾が泣く  『六百句』『句日記』11月18日
 
 虚子の一行は次の旅程の京都へ向かうが、愛子たちは、同じ汽車に乗って敦賀まで見送っている。
 
  敦賀まで送り送られ時雨来る  『句日記』11月19日
  春水に沿ひ帯の如三国町      〃
 
 このとき、丁度三国の方角に当たって虹が立った。
 「虹が立つてゐる。」と虚子がいうと、「あの虹の端を渡つて鎌倉へ行くことにしませう。今度虹が立つた時に……」と愛子が独り言のようにいう、この出来事が「虹」の最初の場面である。
  こうして、「虹」の物語がはじまった。
 
 翌昭和19年10月20日、『句日記』には虹の4句があり、前書には、「虹立つ。虹の橋かゝりたらば渡りて鎌倉に行かんといひし三国の愛子におくる」とある。
 
  浅間かけて虹の立ちたり君知るや  『句日記』10月20日
  虹かゝり小諸の町の美しさ       〃
  虹立ちて忽ち君の在る如し  『六百句』
  虹消えて忽ち君の無き如し    〃
 
 昭和20年11月5日、虚子は二度目の愛子居を訪問。前年に亡くなった関西の弟子西山泊雲の墓参りの途中に年尾を伴って訪れ、このとき、句会をした九頭竜川に面した二階の部屋を、虚子は「愛居」と名づけている。次は当日の『句日記』からの3句。
 
  船人は時雨見上げてやりすごし  『六百句』『句日記』11月5日
  展望に飽き顧みて炬燵あり  『句日記』
  朽船をめぐりて菜屑去り難な  『六百句』
 
 昭和21年7月19日の『句日記』には虹の句が6句ある。「迷子、孔甫来」とあるので、句会をし、その「虹」が兼題だったのだ。迷子は岡安迷子、孔甫は安田孔甫である。虚子は何より句会が好きで、客が来れば句会をし、それをもてなしと考えていた。
 中の二句は小説のタイトルとなっている。
 
  虹を見て思ひ/\に美しき  『六百五十句』『句日記』7月19日
  人の世も斯く美しと虹の立つ    〃
  虹消えて音楽は尚ほ続きをり  『句日記』
  虹消えて小説は尚ほ続きをり    〃
  虹の輪の中に走りぬ牧の柵  『六百五十句』
  虹消えて静かにもとの小村かな  『句日記』
 
 虚子は、昭和19年9月から昭和21年10月までの約2年間に詠んだ中から、昭和21年羽田書店より刊行の『小諸百句』として発表していて、虹の句を6句入れている。
 『小諸百句』を読んでいると、百句は連作の構成であって、連句と考えれば、虹の6句は、連句における恋の部の役割であり、写生文における山であるかもしれない。
 「この小説(?)ははじまつてゐるのである」と、『虹』4部作の巻末で虚子は付記の中で疑問符をつけたが、さらに次のように続けている。
 「一つの虚構もない。たゞ頭に深く印象したものを書いたのに過ぎない。(略)之が私の写生文である。同時に又小説でもあるかもしれぬ。事実を偽らずに書きはするが、書くべき事実と書かないでいゝ事実とを取り分けするのは私の心である。
 事実を曲げなくても、何等フィクションを用ひなくても、事実そのものが小説である」と。
 
 こうして疎開中の小諸生活で、『虹』は、先ず『小諸百句』として輝き、さらに、愛子と愛子を廻る人びとの虹のように清らかで美しい思いを選び取って書き連ねることで、虚子は、依頼された小説として完結させたのであった。