第五百七十七夜 嶋田麻紀の「さくらんぼ」の句

 6月11日は「学校図書館の日」である。長崎市の活水高校で英語の講師をしていた頃、クラスを担当していなかったので、空き時間には学校図書館で本を借りて読んでいた。イギリスのチャールズ・ディケンズの小説が全巻揃っていたのを、片端から読破した。『クリスマス・キャロル』『デイヴィッド・コパフィールド』『二都物語』が好きだった。図書室の先生から「荒木先生、これで全部ですよ」と言ってくれたことを覚えている。

 読書は小さい頃は父の与えてくれたロシアのトルストイの童話『イワンの馬鹿』。中学生になるとドイツ生まれのスイスの作家ヘルマン・ヘッセの『車輪の下』『デミアン』、大学生になるとアメリカのホーソーンの『緋文字』など小説ばかり読んでいたように思う。そして再び、トルストイやツルゲーネフなどロシアの長編に夢中になった。書店で探して広縁の籐椅子で、一人っ子の私は時間のあるかぎり読書していた。
 読書の友はお煎餅が好きだが、6月になると断然「さくらんぼ」一皿となった。

 今宵は、「さくらんぼ」の俳句を見てみよう。

■店で

 1・幸せのぎゆうぎゆう詰めやさくらんぼ  嶋田麻紀 『夢重力』
 (しあわせの ぎゅうぎゅうづめや さくらんぼ) しまだ・まき

 句意は、箱に詰められているさくらんぼは、赤い実を上にして空きなく詰められ、昔の山手線の満員電車のごとくぎゅうぎゅう詰めだ。だが、さくらんぼのぎゅうぎゅう詰めは「幸せのぎゅうぎゅう詰め」だという。
 
 第3句集『無重力』を拝見したとき、一瞬にして惹かれた作品であった。あとがきの1部を紹介させていただく。
 「勿論、心の中のすべての自分を生きるとなると、現実には不可能に近いし、いずれかの自分を抑圧して生きることになる。しかし、その抑圧された自分も真実の自分であり、それがもう一人の自分として成長して来る。言わばそれは「夢」の部分であり、否定されればされるほど、大きなエネルギーをもってその人を惹きつける。
 それが『夢重力』である。」

 2・さくらんぼさざめきながら量らるる 成瀬櫻桃子 『現代歳時記』成星出版
 (さくらんぼ さざめきながら はからるる) なるせ・おうとうし

 句意は、さくらんぼの量り売りの様子である。赤いさくらんぼの実には細くて長い茎がついている。ちょっとつっかえたりしながら秤にのせて量っている。
 
 中七の「さざめきながら」は、店の人と買う人の話し声ではない。茎がつっかえてスムーズに袋に入れることのできない様子を表した言葉だと思った。真っ赤な甘いさくらんぼには、この言い方がよく似合う。

■食べる

 3・茎右往左往菓子器のさくらんぼ  高浜虚子 『六百五十句』
 (くきうおうさおう かしきの さくらんぼ) たかはま・きょし

 句意は、菓子器にのせて運ばれたさくらんぼは、大きな丸い実と細くて長い茎があるから、きれいにお皿のせることは至難の業である。
 
 2の成瀬櫻桃子の作品ではさくらんぼのアンバランスを「さざめき」と捉えたが、3の虚子は「茎右往左往」という表現にしている。右往左往も、あわてふためいて、あっちへ行ったりこっちへ来たりする様子である。似ているが、虚子の「茎右往左往」は茎を客観的に明確に見えているところが桜桃子の大きく捉えた「さざめき」と異なっている。

 4・柄をつんと唇に遊ばせさくらんぼ  千原叡子 『ホトトギス 新歳時記』
 (えをつんと くちにあそばせ さくらんぼ) ちはら・えいこ
 
 句意は、さくらんぼは、食べる時には実を口の中に含み、実を転がすと、口からつんと出た茎は、唇のあっちへこっちへ遊んでいるようである、となろうか。
 
 さくらんぼは、赤くて丸い実の甘い美味しさだけでなく、茎も、なかなかの存在感であると改めて感じた。