第五百八十夜 逸見京子の「竹散る」の句

 数日前、牛久沼の芋銭居を訪ねた。当時「ホトトギス」の表紙や挿絵に河童を描いた小川芋銭を、高浜虚子は、明治42年の年末の12月12日に訪れていた。『虚子五句集』の詞書を見ると、虚子が門下の俳人たちを実にマメに訪問していることに驚くが、芋銭を訪ねたのは、夕暮れ迫る時間帯であった。河童などを描く芋銭の魑魅魍魎の世界のイメージを壊さぬよう列車を選んだという。
 このことを知った私は、茨城県取手に移転して初めての芋銭居を訪問したのは、虚子を真似た夕暮れであった。怖いから夫と犬と3人連れであった。
 
 芋銭居は、竹林が多い。庭の突端は急な崖になっているが、竹に掴まりながら崖を覗くとびっしり竹が生えている。万が一落下しても、竹林が撓りながら受け止めてくれそうだ。
 久しぶりの芋銭居は、現在は牛久市が管理していて、そこのボランティアグループ「芋銭の庭」の方々が、手入れをしている最中であった。竹林はほどよく間引かれ、庭園の花も芋銭が好んだという仙翁(せんのう、ナデシコ科)の赤い花がちょうど満開であった。河童像の手入れも、もうすぐ終わるだろう。
 
 今宵は、「竹散る」「竹の皮脱ぐ」「若竹」の作品を紹介しよう。

■竹散る:夏に新葉が出てくると古い葉が散る。

 1・竹散るやひとさし天を舞うてより  邉見京子 『新歳時記』平井照敏編
 (たけちるや ひとさしてんを まうてより) へんみ・きょうこ
  
 2・竹落葉時のひとひらづつ散れり  細見綾子 『現代俳句歳時記』角川春樹編
 (たけおちば ときのひとひら ずつちれり) ほそみ・あやこ
  
 1句目、竹林の夏は、新葉が出てくると古い葉が散りはじめる。これが「竹散る」である。白拍子の舞のごとく能の序の舞のごとく、天から一曲を舞いながら落ちる姿を、「ひとさし天を舞うてより」と詠んだ。
 邉見京子(へんみ・きょうこ)は、大正12年、鹿児島県生れ。石田波郷、石塚友二に師事し、 「唳(れい)」を創刊主宰。第15回角川俳句賞を受賞した。
 
 2句目、竹落葉は、古い葉が落ちること。その散っている葉の1枚1枚を、細見綾子は「時のひとひら」のようであると感じたのだ。古い葉は自然に散ってゆくが、なかなかの風情であるという。

■竹の皮脱ぐ:春の筍は成長するにつれて下の節から皮を落として成長する。

 3・音たてて竹が皮脱ぐ月夜かな  小林康治 『新歳時記』平井照敏編
 (おとたてて たけがかわぬぐ つきよかな) こばやし・こうじ

 4・皮を脱ぎ竹壮麗となりにけり  宮下翆舟 『現代俳句歳時記』角川春樹編
 (かわをぬぎ たけそうれいと なりにけり) みやした・すいしゅう
 
 3句目、この作品は、月夜に皮を脱いでバサッという竹の皮が地に落ちる音を聞いた瞬間であろうか。竹を脱ぎかかって竹から剥がれているところは見たことはある。ちょうど脱ぎ終えたばかりの美しい皮が竹をずり落ちて地面にあるのも見たこともある。
 だが、瞬間の音を聞いたことは未だない。
 
 4句目、この作品の景は、先日の牛久沼の小川芋銭居の竹林で見た。脱いだばかりの青い竹の肌は、ビロードの触り心地がすると思ったほど。こうした瞬間を「壮観=すばらしい眺め」というのであろう。「若竹」になった瞬間であった。

■若竹:筍が伸びて大きくなったものを、今年竹、若竹という。

 5・若竹や夕日の嵯峨と成りにけり  与謝蕪村 『現代俳句歳時記』角川春樹編
 (わかたけや ゆうひのさがと なりにけり) よさ・ぶそん
  
 この作品に、1988年の6月、ヨーヨー・マのチェロの演奏に合わせて坂東玉三郎の舞踊の夜の公演に行ったことを思い出した。会場は大阪であることを確認せずチケットを購入した。一泊となるプチ家出となったが、中年女性にはこんな日も必要とばかりに私は決行した。
 今宵伝えたいことは玉三郎やヨーヨー・マではなく、翌日の京都の1人旅である。
 嵯峨の竹林をどうしても見たかった。竹が皮を脱いですっくとした青い若竹になっている季節である。嵯峨の竹林を歩き、行動力の凄さに憧れている瀬戸内寂聴の門前まで行き、美味しいものを食べ、納得して新幹線に乗った。