第五百八十一夜 あらきみほの「中尊寺ハス」の句

 平成11年7月17日の朝、電話をいただいた。

 「ハスの花が咲きました。明日の早朝が見頃です。まだ、一般の方は誰も見ていません。」

 声の主は中尊寺円乗院ご住職の佐々木邦世さんであった。
 じつは七月の初めに第1花が咲いたそうである。その折りにお電話をいただいており、次に「咲きました」という電話があったら、何曜日であろうと、たとえ仕事をなげうってでも、見に行こうと、夫も私も決心していた。句集『ガレの壺』を上梓して以後、2年間というものは自分でも呆れるほど、俳句に情熱を失っていた。自分を奮い立てる何かが起こるのを待っていたのだった。
 
 準備を整えて真夜中の12時に出発した。エンジンの規則的な音のなかで、頭に描くのは、八百年の眠りから醒めた蓮とはどんな花であろうかということばかりであった。
 何故か、能面「孫次郎」が浮かんできた。

 4時頃には、仙台を過ぎた頃から明るくなり出した。今日の予報は雨。雨は降ってはいないが、一面の霧の中である。梅雨末期の万緑が灰色がかって、私たちはうす煙りのなかを漂っているようである。前方の車のテールランプだけ霧にうっすら滲んで見える。視界30メートル位のハイウェイ沿いの土手に、次々に大輪の鬼百合が現れては過ぎていった。
 
 5時には東北道一関インターを降り、4度目の中尊寺へと向かった。最初は大学時代に友人達とがやがやと通り過ぎた。2度目は12年前に薪能を観に行った時である。山形の陶芸家の家で夜明けまで友人達と飲んで騒いでドライブしてきた後の観能は、鼓も笛も謡も舞も、深い杉林の真闇に浮かんだ夢の出来事のようで、半分はうとうととしていた。その時が私のお能初体験である。3度目は、2年前の薪能である。この頃には、深くて捉えどころのないお能にも、俳句にもどっぷりと浸かりかけていた。「黒塚」と「一人静」の演目が主ではあるが、狂言師・野村萬斎も出演する。伝統芸能と現代を結びつけることに情熱を傾けている萬斎に魅かれ、そこに、俳句の意義をひとつ見つけていた私は、萬斎を追いかけて真夜中のドライブをしてきたのだ。夕方までの時間潰しに毛越寺や達谷窟と見て回った。毛越寺の大蓮がうつしく揺れていたのが印象的であった。

 そして今回が4度目の中尊寺である。
 「ハスが咲きました。」
 とおっしゃる邦世さんの声は、どこまでも淡々として静かで、秀衡の棺の中、泰衡の首桶に副葬品の1つとして入っていた蓮の実が、八百年の眠りから覚めたのだと説明してくれた。

 内海隆一郎著『金色の棺』を思い出した。
 中尊寺金色堂に安置されている棺に納められた藤原三代の御遺体を世に公開したのは、昭和5年の修復のために棺を内見した1人、中尊寺円乗院住職で中尊寺執事の佐々木実高氏である。戦時中に荒廃した中尊寺をいかに立て直すかに苦心する僧侶の1人実高氏と、学術調査の計画を立ててミイラを公開しようと情熱を燃やす新聞記者が、協力して苦難を越えて金色の棺を公開するまでの実録であるが、内海隆一郎氏はミステリータッチの小説のような作品に仕上げている。

 そして邦世さんは実高氏の次男であり、内海隆一郎氏は邦世さんの姉の栄子さんとご夫婦である。

 もう1度『金色の棺』を読み直した。蓮の実のことに触れていたかどうか確認するためである。そこには調査団の1人、大賀一郎氏はオニグルミ、モモ、ウメ、ヒエなどの種子だけ言及しており、ハスの種子のことは書かれていなかったからだ。

 その後のことが、中尊寺仏教文化研究所の主任(現所長)である佐々木邦世氏の近著『平泉中尊寺――金色堂と経の世界』(吉川弘文館)に書かれていた。大賀博士は蓮の実を研究室に持ちかえり、一層の精査の予定であったらしいが未完のままとなっていた。大賀博士の没後に中尊寺に種子は返還されたが、中尊寺は、棺の中から採取した蓮が発芽しないものかどうかを実験的に播種育成を故大賀博士門下に依頼したのであった。

 平成5年にハスの種子が発芽して開花への期待は膨らみ、さらに待つこと5年を経た平成10年に、研究所で開花した。そして今年初めて、蓮根の形で中尊寺へ戻ってきた。蓮は、月見坂の測道を登っていった水田の一角に柵で囲われて大切に育てられ、見事に開花したのであった。「中尊寺ハス」と名付けられた。
 
 5時半頃、邦世さんと約束をした水田脇に到着した。回りは青田である。老鶯がくっきりとした鳴き声を繰り返している。杜の森からは蜩が円を描くように鳴いている。柵の中に4、5人いて、カメラを向けたりスケッチをしている人もいた。蓮は1花だけ咲き、他に3つほど大きな莟があった。蓮は、いつも見慣れた花よりも小振りである。ピンクというか淡紅色というか、凛とした、清楚な、無垢の美しさを具えている花である。花びらは少し肉厚で、しっかりした形をしていた。

 到着した時は、蓮は5分咲きくらい。じっと見ていても、開く様子は分からないのだが、しばらくすると、前よりも開いた花びらに気づくのである。花びらがだんだん反り、雌しべ雄しべが見えてくる。忽ち虻が寄ってきた。蜘蛛の糸もしっかり花へ渡っていた。甦った蓮には、再び、生きるものの営みが始まっていた。

 約束の時間は7時、見始めたのは5時半からであったけれど、本当はもっと早くから、ハス開花の時間のすべて共有したかった。1時間ほど向き合ってから、しばらく金色堂や白山神社能舞台を歩いた。雨催いのうっすらと霧の出た杉の高木に覆われた境内は、昼間の賑わいとかけ離れた静けさの中にあった。泰衡に想いを寄せていると、蓮の精でも舞い出るかのようであった。
 当日の作品から8句、書き留めておこう。

   「中尊寺ハス」      あらきみほ

  かの森の堂の閉ざされ夏未明
 (かのもりの どうのとざされ なつみめい)
  
  舞ひ出でて光堂より蓮の精
 (まいいでて ひかりどうより はすのはな)
 
  実の飛んで時空を飛んで蓮開花  「中尊寺季刊誌「開山」の扉に掲載」
 (みのとんで じくうをとんで はすかいか)
 
  八百年の今朝や時分の蓮の花
 (はっぴゃくねんの けさやじぶんの はすのはな)
 
  四方よりの田風に吹かれ古代蓮
 (よもよりの たかぜにふかれ こだいはす)
  
  蓮かこむ透明なこゑ二三言
 (はすかこむ とうめいなこえ ふたみこと)
  
  虻の尻はやもとびかふ蓮の朝
 (あぶのしり はやもとびかう はすのあさ)
  
  朝粥の窓にみどりの風立ちぬ
 (あさがゆの まどにみどりの はすのはな)

 朝粥を戴いた中尊寺円乗院御住職の佐々木邦世さんのご自宅の玄関を入ると、正面に山口青邨の〈光堂かの森にあり銀夕立〉の額が掲げられていた。山口青邨が生地盛岡に行く途中、汽車の窓から中尊寺の森を見たときの作である。
 私の師事している「花鳥来」の深見けん二先生、当時師事していた「屋根」の斎藤夏風先生は、「夏草」主宰の山口青邨先生の門下であり、私は孫弟子である。懐かしかった。