第五百八十二夜 長谷川智弥子の「白玉」の句

 平成9年(1997)6月16日は、95歳で亡くなられた住井すゑの忌日である。住井すゑの住む家は牛久沼の丘の上。敷地内には母屋、書斎の他に「抱樸舎」という、かつては住井すゑを中心に学習会が開かれた別棟がある。様々な人たちが「抱樸舎」を訪れ、住井すゑを失った今も、人間平等の思想を受け継ごうと「学習会」は続けられていた。
 今日は、『いのちは育つ―抱樸舎から』より「子育ち」の1部を紹介させていただく。
 
   子育ち               住井すゑ
 
 子育て――。イヤな言葉だ、聞くだけでぞっとすると、もう何度も言ったり書いたりしてきた。
 なぜイヤなのか、なぜぞっとするのか、それは”子育て”意識は、そのまま管理思考に通じるからである。
 思ってもみてほしい。子どもという名の新しい生命は、生命体の必然にして自ら”育つ”のであって、けっして周囲の思わくや計算や努力で育てられるたちのものではない。早いハナシ、もしその生合体に育つ力――必然がなければ、いかに周囲が努力したところで――たとえばどんなに栄養物を与えても受けつけまい。だから、ほんとうは”子育て”ではなくて、”子育ち”なのだ。
 
 今宵は、住井すゑと関連づけて俳句を考えてみよう。
 
■母の顔

 1・白玉の母の顔して浮きあがる  長谷川智弥子 『蝸牛 新季寄せ』
 (しらたまの ははのかおして うきあがる) はせがわ・ちやこ

 句意は、白玉は白玉粉(もち米の粉)に同量ほどの水を入れて混ぜ合わせ、練り合わせ、湯がく。ポイントは耳たぶほどの硬さに練り、丸め、上を凹ませ、湯に落とす。茹で上がりは浮かんだときだ。茹で上がると、凹ませた白玉がちょうど母の笑顔のようになってふうわりと浮いてきましたよ、となろうか。【白玉・夏】
 
 住井すゑのことを書き、この俳句を組み合わせようと決めたのは「母の顔して浮きあがる」の措辞であった。笑顔には笑窪もあったような住井すゑの顔が白玉団子のように浮かんできたのだった。

 長谷川智弥子(はせがわ・ちやこ)は、昭和18年、新潟県長岡市の生まれ。「寒雷」で加藤楸邨に師事、石寒太主宰の「炎環」に所属。地元では「ピエロの会」に所属。「炎環」のパーティで一度お目にかかったことがあり、着物姿の殊に美しい方であった。

■銀河

 2・ところてん逆しまに銀河三千尺  与謝蕪村 『新歳時記』平井照敏編
 (ところてん さかしまに ぎんがさんぜんじゃく) よさ・ぶそん

 句意は、心太突きから逆さまに出てくる「ところてん」は細くて長くて銀河の流れが果てしなく続いているようだ、となろうか。【ところてん・夏】
 
 牛久沼の丘の上に住む住井すゑは、2階の窓から又は庭の突端から広々とした空が見える。日没の美しさがあり、月が東から西へ動いてゆく様も星々の動いてゆく様も見えるに違いない。
 私は、牛久沼の住井すゑの丘と反対側の弘法大師を祀ってある丘の上に出かけて、日の出や月の出を見る。牛久沼は関東平野の真ん中あたりにあり、遠く東京の夜景も見える。

■一本きり

3・金輪際一本きりの曼珠沙華  平本くらら 『牛久沼のほとり』より
(こんりんざい いっぽんきりの まんじゅしゃげ) ひらもと・くらら 

 句意は、牛久沼で隣に住む医者であり俳人である平本くらら氏の見る住井すゑは、真っ赤に咲く1本きりの曼珠沙華のようですよ、となろうか。【曼珠沙華・秋】
 
 平本くららは、俳人で医師。石田波郷の弟子の石川桂郎に師事し、桂郎没後に俳誌「風土」の主宰者となった。くららは、土浦に住み住井すゑの夫の犬田卯のかかりつけの医師であったが。その後、牛久沼の住井すゑの隣人になった。
 ある日、くららは1枚の色紙を持って訪れた。掲句が書かれていた。そのとき、くららが住井すゑを評した言葉が凄い。
 「ぼく、怖いんだなア。ここに移り住んで16年になるが、毎年秋の彼岸が近づくと、境の垣根ぎわに1本曼珠沙華が咲く。1本きり。1本きりで。決して2本は咲かない。ぼくは庭越しに、じっとのぞくようにして眺めるんだが、眺めているうちにだんだん怖くなってくるんだ。それが、そっくり、あんたに見えてさ。
 人間、生涯、1つの思想を持ち、1つの信念を貫き通すって、当人としてはどういう具合なのか知らぬが、はたで見てると、壮絶というより、怖いんだよなア。ほんとうに。」(『牛久沼のほとり』より)

 この「千夜千句」を書くにあたり、『牛久沼のほとり』を読んだり、ネットで調べたりする中で、ずっと疑問だった「抱樸舎」の名の由来がわかった。抱樸とは「素を見し樸を抱き」であるという。勿論、私にはない凄さを感じながらであった。
 令和3年9月、今年の秋、住井すゑの屋敷と執筆部屋と抱樸舎は、遺族が牛久市に寄贈し「住井すゑ記念館」になる。