第五百八十二夜 深見けん二の「梅雨深し」の句

 2021年の梅雨入りは、6月14日であった。かなり前から雨催いの日が多く、もう梅雨入りか、今日こそ梅雨入りかと、気象庁の宣言を待っていた。宣言された日は、例年通りの頃であった。
 
 「梅雨」の句を探して深見けん二先生の作品を思い出した。高浜虚子が昭和34年4月8日に85歳で亡くなられた折の気持ちが詠まれている。
 私は、20年ほど前に「花鳥来」の虚子研究会の『五百句』と『七百五十句』の輪講会に参加していた頃、お仲間の先輩に指導されながら、虚子の資料を古書で見つけては買い揃えていた。
 虚子没後には、月刊誌、結社の俳誌が虚子の特集が組まれていた。
 「ホトトギス」「玉藻」で特集が組まれたことは勿論だが、角川書店の月刊誌「俳句」5月号は高浜虚子追悼号を、俳句研究社発行の月刊誌「俳句研究」7月号は高浜虚子研究号を出していた。
 たとえば、「俳句研究」の目次は、虚子句抄380句、句風の変遷、俳論の変遷、旅の虚子、句会の虚子、散文の世界、虚子年譜と、この1冊で虚子全般が網羅されている。
 
 「俳句研究」7月号の俳句研究編集室便りには、編集者・浅沼清司が次のように書かれていた。
 
 「高浜虚子研究号」をお送りします。研究となれば、反対の立場からの発言も含め、各方面から照射してその全容を把握すべきですが、敢て「ホトトギス」に拠り、その主張を実践しつつある中堅・新鋭の方々にご執筆していたゞきました。(略)
 故人の仕事の再評価が今後大いに起る動きがうかゞへるとき、それらは明日に託し、まづ基点を、つまり親しく故人に接しつゝ常にその歩むところを知悉してをられるいはゞ同行者の考察を集めることに方針を置いたからです。
 謹んで故人の御冥福をお祈りするものです。
 なほ、本号の企画については清崎敏郎・深見けん二・楠本憲吉の3氏の御協力に負ふところが多い。忽忙の間に御執筆賜つた諸氏とともに深く感謝申上げる次第です。
 本号がお手許にとゞくのは梅雨ももなかと思はれます。読者諸氏の、とくに御病臥されてゐられる諸兄姉の御自愛を切にお祈り申上げます。〈浅沼〉
 
 深見けん二先生は、「俳句研究」7月号に「俳論の変遷」を清崎敏郎と分担し、昭和10年以降を書き、昭和20年以降の高浜虚子年譜を書いた。さらにけん二先生は「花鳥諷詠」「極楽の文学」などの虚子のことばの内容を1つずつ250字に要約した。
 「俳句」5月号には、深見けん二・清崎敏郎編として「高浜虚子年譜」を書いた。
 このほか、「夏草」「かつらぎ」に「晩年の虚子」と題し、追悼文を書いたのである。

 今宵は、次の「梅雨深し」の作品を見てみよう。

 1・師を悼む稿書きつゞけ梅雨深し  深見けん二 『雪の花』
 (しをいたむ こうかきつづけ つゆふかし) ふかみ・けんじ

 句意はこのようになろうか。けん二先生は、師の高浜虚子が亡くなられた直後から、多くの俳句月刊誌、関係する俳誌などに書いていたのだ。花の日々であった葬儀の日々は、葉桜の頃に終えたが、掲句の「師を悼む稿書きつゞけ」の日々は梅雨となり梅雨深しとなる頃まで続いたのであった。

 もう1つ資料がコピーの形で見つかった。昭和34年6月1日発行の「玉藻」である。
 深見先生は日置草崖氏、藤松遊子氏とともに6月号の「玉藻」虚子追悼号に、「四月一日より」と題した日録が、写真を含めて13頁にわたって書かれていた。
 高浜虚子が、4月1日に意識不明で倒れてから4月16日までの葬儀の全てが終るまでを細かく記したものであった。8日に亡くなられ、9日に本通夜、10日は皇太子殿下御婚儀のため一切参集せず、11日に密葬、虚子とご近所の御成小学校との交流から小学生の弔事の全文も書かれている。13日は三笠宮殿下ご夫妻の御弔問。14日は、閣議で虚子先生に対し、閣議で従三位勲一等瑞宝章を贈ると決定。16日、年尾先生が文部省に赴き、従三位勲一等瑞宝章並びに勲記を拝受。この日は寿福寺にて御葬儀。朝比奈宗源老師の導師で読経が始まった。午後からは一般の告別式。その中に、恩讐を越えて、水原秋桜子の姿も見られた。
 「いつか葉桜の候になってゐたのである。」の最後の言葉から、けん二先生の淋しさがひしひしと伝わってきた。(けん二記)
 
 私も、こうして資料を読み直している時間は、再び虚子に出会い、また違う虚子にも出合ったように感じる楽しさがあった。