この頃は、1日の中で必ず黒雲がやってきて通り過ぎる時に豪雨が降るが、長雨にはならなくて、洗濯もできるし、犬の散歩にも行ける。今日は午前中に犬のシャンプーをした。先代の黒ラブは乾かす時のドライヤーが苦手だったが、二代目のノエルは毛が短いので、日光浴で忽ち乾くという手のかからない犬である。
今宵は、「梅雨」作品をもう少し紹介してみよう。
1・梅雨の夜の金の折鶴父に呉れよ 中村草田男 『来し方行方』
(つゆのよの きんのおりづる ちちにくれよ) なかむら・くさたお
句意はこうであろう。梅雨の夜の夕飯のあと、父も母もともに囲んだテーブルの上で、子どもたちは折紙遊びをしている。鶴の折り方を覚えた子どもたちは次々に違う色紙の鶴が出来上がってゆく。赤、黄、青、緑、銀、金。出来上がると見せにくる。にこにこと眺めていた父の草田男は「金色の鶴を父さんにお呉れよ」と言ったのかも知れない。子から「イヤよ」と断られたかもしれない。
何しろ、色紙の中で一番厚くて一番輝いている金色の紙で折った鶴だから。子にしてみれば宝物だ。
この作品は、昭和14年に山本健吉から「人間探求派」の1人と呼ばれた後の昭和16年の作で、俳壇では人気作家となっていた。だが「ホトトギス」の中では虚子の教える花鳥諷詠とは違うということで居づらさを感じていて、「ホトトギス」に投句をしなくなっていた時期であった。戦後昭和21年、「萬緑」を創刊主宰。そうした時期でも草田男は、虚子庵へ新年の挨拶を欠かしたことはなかった。昭和31年、虚子は〈例のごとく草田男年賀二日夜〉と詠んでいる。
昭和34年、高浜虚子没後の月刊誌「俳句」5月号の高浜虚子追悼号でのインタビュー記事の中で、私は、この句の背景を知った。
新年に挨拶に行くようになって10年、特別に俳句の話をするのではなく楽しく雑談するだけであったが、10年目の昭和34年は、このような会話があったという。この年の4月8日、虚子は亡くなった。
「先生に、たまにお目にかかるのだから、いままでの正月のときだつて、もつといろいろ俳句に関することを承り、およばずながら自分の考えていることももつと申し上げなければならなかつたんですが、あんなものを作つていては駄目だと先生に引導をわたされては大変だという気がして、つとめて避けていたのは済みませんでした」と、そのままのことを申し上げたんです。
そうしたら、虚子先生は、「僕の思い描いている俳句というものと、必ずしもキチンと一致しているというわけではないが、君のような行きようもあり、またそれがどうなつてゆくかと思って、僕はひじょうに楽しみにして永く眺めつづけている」といわれたんです。
草田男は非常に嬉しく思い、これまでの一生で、ありがたく、救われたような気持ちにしてもらったのが虚子先生の言葉であったと、インタビュー「虚子先生と私」の中で述べていた。
2・梅雨の森祭壇のごとしづかなり 脇 祥一 『気象歳時記』蝸牛社
(つゆのもり さいだんのごと しづかなり) わき・しょういち
句意は、梅雨の最中の森は、柔らかな美しい新樹の森だが鎮まり返った森は薄暗さもある。歩いてゆくと、心が凛としてきて祭壇の前にしづしづ歩みよって行くように感じた、というのであろうか。
「祭壇のごと」と、詠まれた感性に驚いた。
脇祥一(わき・しょういち)は、昭和26年、神奈川県生まれ。結社「季」に所属。平成22年、59歳で亡くなられている。
3・正直に梅雨雷の一つかな 小林一茶 『ホトトギス 新歳時記』
(しょうじきに つゆかみなりの ひとつかな) こばやし・いっさ
一茶の、「正直に」とはどういうことだろう。「梅雨雷」とは、梅雨の最中にも雷は鳴るが、梅雨前線が日本を通過するときに鳴る雷でもあるという。
この作品の句意は、梅雨明けに挨拶のように(正直に)鳴る雷のことであろうか。
4・旅人の如くに汚れ梅雨の蝶 上野 泰 『ホトトギス 新歳時記』
(たびびとの ごとくによごれ つゆのちょう) うえの・やすし
句意は、春の蝶が美しい白さであったのに、梅雨のそぼ降る雨の中の蝶はすっかり汚れてしまっていた。まるで長旅から戻ってきた蝶のようであった、ということであろう。