第五十八夜 長谷川かな女の「羽子板」の句

  羽子板の重きが嬉し突かで立つ  『龍胆』大正三年

 鑑賞をしてみよう。
 お正月になると、ずしりと重い羽子板を一つ抱えて門の前に立っているかな女。だが、重い羽子板だから羽つき遊びに加わることもなく、人が羽子をつくのをじっと眺めているばかり。「重きが嬉し」からは、いかにも大切な宝物でも抱えているような光景がみえてくる。
 
 「重きが嬉し」に、虚子はホトトギスの「進むべき俳句の道」で「かな女の体験からでしか生まれない言葉だ」と称賛した。
 かな女には、年の暮になると日本橋の有名な押絵職人・勝文斎の羽子板を贈ってくれる人がいた。羽子板は五代目や団十郎の似顔の押絵のうつくしいもので、毎年増えてゆく羽子板を並べて遊ぶのが楽しみであったという。

 長谷川かな女(はせがわかなじょ)は、明治二十(1887)年、東京日本橋の生まれ。江戸橋の老舗で番頭をしている家柄を父母に持ち、江戸の伝統文化と明治の新文化の綯い混じる日本橋を庭のようにして長谷川かな女は育った。
 かな女がホトトギスへ投句をするようになったのは、明治四十二年の二十二歳。明治四十三年には、かな女は長谷川家の養子となった零余子と結婚。
 大正二年、かな女は虚子が始めた婦人俳句会で頭角を現すようになり、女流俳句の先人となる。次に虚子はホトトギス誌上に「台所雑詠」の欄を設けた。この欄は後に、杉田久女や竹下しづの女が現れた。第一次女性俳句の隆盛であり、やがて雑詠欄でも女性俳人が活躍するようになった。
 虚子の先見の明は、まだ俳句も男性の世界であった大正の初めに、女性を俳句の仲間に引き入れたことである。もちろん、現代のように俳句のために吟行するなど以ての外で、女性が連れだって出かけるのは目立つ一行となるので、「お詣り」などと称していたという。

 零余子と結婚したかな女は、夫の主宰する「枯野」に参加してホトトギスを離れる。もう一句紹介する作品は、零余子没後の作で、第二句集『雨月』に収められている。

  藻をくゞつて月下の魚となりにけり  『雨月』昭和五年

 井の頭公園へ吟行した時の句である。池を覗き込むと藻が揺れて女人の髪の毛のようであったという。夫零余子が亡くなって二年、夢中で零余子の志を継いで結社を率いてきた。絡みつく悲しみの藻の中で鈍い光を放つ「月下の魚」は、かな女自身の投影のように思われる。

 第二句集『雨月』の後記で、「特にお月が好きな私に雨月は自分の生涯にも似たやうに思はれたので題としました」と、かな女は書いた。『雨月』には、第一句集『龍胆』に収めた句も含められており、夫が亡くなって十年経った五十二歳のかな女の、自然観照へと踏み込んだ、俳句への意気込みの感じられる句集である。かな女は、昔の恩師である虚子に序文を依頼して、この句集を飾ることができた。

 かな女は、八十二歳で亡くなるまで女流俳人の第一人者であった。