第五十九夜 深見けん二の「水鳥」の句

  水鳥の水をつかんで飛び上がり  深見けん二  『日月』
 
 句意は次のようであろうか。
「水鳥が飛び上がりました。見ると全身から水をしたたらせていますが、まるで水をつかんで水を離れていくように見えましたよ。」
 
 私の部屋には、頂戴したこの句の色紙が飾ってある。詩歌文学鑑賞を受賞された後の祝賀会だったように覚えているが、こうした祝賀会では、けん二師は会員の一人一人に色紙をくださる。どの作品かは偶然であるが、毎回、ああ、この句が私のもとにやってきた、と思わせてくれる作品を手にしている。

 鑑賞をしてみよう。
 
 水鳥は、水掻きがあって水の上に遊泳している、白鳥、鴨、鳰、鴛鴦、百合鷗などで、夜間には岸から離れた水の真ん中に浮寝をする。日本で冬を過ごす渡り鳥が多いので、沼や川や池に集まってくる冬が一番賑やかだ。
 中七の「水をつかんで」は描写の表現であるけれど、色紙を見るたびに、ただの写生の描写ではないと思わせる。水から飛び上がる水鳥は、全身から水をしたたらせてはいるが、水をつかんでいるわけではない。冬の冷たい水が、水鳥の飛翔によって空中に跳ねるとき、水の滴は日の光を受けて輝いていたと思われる。
 けん二師は、吟行ではこれと決めた題材(季題)に出会うと、じっと動かない。30分でも佇んでいたり、大地に座り込んでいるときもある。「写生は発見」と言う「発見」とは、俳句の場合には「それは言葉となって授かること」であると、深見けん二は言っている。
 だから、「水をしたたらす」という客観描写ではなく、水鳥の意思を感じることのできる「水をつかんで」という「授かった」言葉による表現にしたのではないだろうか。この作品は、水鳥のつかんだ水の煌めきを詠んでいるのではないだろうか。
 
 第一句集『父子唱和』から紹介しよう。
 
  鴨流れゐるや湖流るるや
 
 鴨の浮寝である。流れゆく川の景ではなく湖の景だから、「流れ」は風によるものと思われる。じっと佇んでいると、ほんの少し鴨が流れているようだ。でも、もしかしたら湖に流れがあるのだろうか。