第五百八十六夜 有働亨の「父の日」の句

 2021年の「父の日」は、6月20日。毎年第3日曜日と決められていて、父に感謝を表す日。アメリカのドッド夫人が5月の第2日曜日の「母の日」にならって、父親に感謝するために白いバラを贈ったのが始まりという。私が「母の日」に赤いカーネーションを買ったりプレゼントを贈るようになったのは、戦後15年ほど過ぎた中学生の頃であった。
 「父の日」は、もう少し後のことであった。いつからか我が家では、子どもたちが率先して用意するようになった。
 
 今宵は、「父の日」の俳句を紹介してみよう。

■歳時記より

 1・父の日と言われ父の日かと呟く  有働 亨 『現代歳時記』成星出版
 (ちちのひといわれ ちちのひかとつぶやく) うどう・とおる

 2・子のために開けある父の日の予定  三村純也 『ホトトギス 新歳時記』
 (このために あけある ちちのひのよてい) みむら・じゅんや

 1句目、句意は次のようであろう。「今日は父の日ですよ」と言われても、有働亨は「そうか、父の日なのか」と呟くだけであったという。父の日がどこの家庭でも行事として行うようになったのは戦後になって暫く後のこと。もしかしたら子の家庭で、お孫さんから「おじいちゃん、今日は父の日ですって・・」と、言われたのかもしれない。
 戦前の男性は、いつだって威張っていたから毎日が父の日であったに違いない。時代的背景を考えながら作品を見てゆと、ぼそっとした呟いた「父の日か」という言葉がわかると思った。
 
 2句目、句意は次のようであろう。父の日となれば、当日はお祝いの中心である。6月第3日曜日は、子のためにどんな予定も入れていない。「ねえ、今日は父の日だから、遊園地に一緒に行こう」と言われれば、「そうだねえ。皆と遊園地はたのしいだろうな」と、嬉しそうに応える。お父さんを喜ばせようとする子は大喜びである。勿論、喜こんでいる子を眺める三村氏も父の日をたのしんでいる。
 三村氏純也氏は、母の日や父の日の文化がとうに日本に定着している、昭和28年生まれの戦後っ子のお父さんである。

■みほ俳句(6月20日作)
  
 3・父の日や我が俳諧の師は白寿  みほ
 (ちちのひや はいくのちちは はくじゅなる)
  
 4・死は酒のゆめまぼろしや父の日来る  みほ
 (しはさけの むげんのなかに ちちのひくる)

 3句目、朝から「父の日」のことを考えていた。当時住んでいた家から近かった練馬区光が丘の俳句教室で、偶然のようにして、深見けん二先生にご指導を受けることになった私が、俳句の父は、「深見けん二」ただ1人であるとしみじみ思ったのだ。平成元年(1989)から師事しているので既に32年目となる。先生は今年の3月5日に白寿を迎えられた。
 私たち弟子は、けん二先生の師である、高浜虚子と山口青邨の俳句をしっかり学んでこそ、けん二先生の弟子と言えると感じているので、まだ長く果てない道のりとなるだろう。
 
 4句目、この父は私の父である。俳句も短歌も好きで、長いこと結社に所属することなく自己流で楽しんでいた。私が俳句を始めると父は喜んでくれた。今だから白状するが、カルチャーセンターに通っていた頃、5句の宿題がどうしても出来ない。「どうせ、ボツになるだろうから1句貸して!」と、私は父の句も混ぜて投句した。句会が始まった。すると借りた父の句をけん二先生が採ってくださったではないか、びっくりした。それからはずっと、下手なりに自分の句を出している。
 
 掲句の「死は酒のゆめまぼろしや」は、父のこと。父は夕食でお酒を飲み、ぐっすり眠り、夜中過ぎから原稿を書いていた。昼食にまたお酒を飲んで昼寝をするという日課を破ったことは1日もなかった。かつて新聞記者だった父は、その後も書き続けていた。
 ある日の昼食、母がもう1品酒の肴を作りに台所へ行っている間のことだった。「あらっ、お父さん、もう眠ったの」と声をかけたときには、父は、手から酒器が落ちたまま、炬燵のテーブルに顔を伏せたまま絶えていたという。
 この日、夫と私は、父の法事で長崎に帰郷していた。急遽、飛行機で東京へ戻った。
 霊安室のソファに座って待っていた小さな母の、少女のような淋しげな笑みを私は決して忘れることはない。平成7年2月4日であった。
 
 父の日ということで、作りたての句であるが、書き留めておきたかった。