第五百八十七夜 山田凡二の「夏至の日」の句

 令和3年6月21日は夏至。「夏至」という言葉は、平安時代に古来中国から伝わった暦「二十四節気」の夏の節気の1つで、「1年の中で昼の長さがもっとも長く、夜の長さが一番短い日である。
 国立天文台が出している2021年夏至の日の各地の日の出・日の入り時刻では、北海道(根室)3:37―19:02、東京都(東京)4:25―19:00、福岡県(福岡)5:09―19:32である。
 
 50年前、東京から長崎に来て住むようになった私は、夜明けがいつまでも昏いこと、いつまでも明るくて夕暮れにならないことに驚いた。40分もの差があった。「夏至」とか「冬至」など、昨日と今日の時間差はそれほど違っているわけではないので、意識しないと毎日は何となく過ぎてしまうが、距離の差は大きかった。
 今日は、梅雨最中だが晴れた良い天気になった。早起きなので「夏至の朝」の犬の散歩をした。また我が家の早い夕食が済んでも未だ西空は明るく、「夏至の夕べ」であった。

 今宵は、「夏至」の俳句を見てみよう。

■朝と夕

 1・夏至といふ何か大きな曲り角  山田凡二 『ホトトギス 新歳時記』
 (げしという なにかおおきな まがりもの) やまだ・ぼんじ
 
 句意はこうであろう。だんだん日が永くなって「夏至」となり、夏至が過ぎれば「冬至」に向かって日が短くなる。このことを考えると、「夏至」は大きな曲り角で、この角を曲がると季節は「冬至」へと向かって進んでゆくのである。
 「大きな曲り角」と表現することで、1年がUターンして1番昼の短い「冬至」となり、再び「夏至」へのスタートラインに立つというのだろう。

 2・夏至の日の手足明るく目覚めけり  岡本 眸 『現代俳句歳時記』角川春樹編
 (げしのひの てあしあかるく めざめけり) おかもと・ひとみ

 句意はこうであろう。筆者の私は、夜の暗さを感じ、夜明けの明るい光を感じて目覚めるのが好きなので、遮光カーテンは半分にしている。岡本眸氏も、どこか夜明けの明るさを感じたくて寝室のカーテンの調節をしているのだろう。
 今日は夏至の朝よ、と気づいて起き上がると、いつになく手も足も明るく軽やかだ。「夏至」の朝は、光の明るさのピークである。作者は心まで華やいだ。

 3・夏至今日と思ひつつ書を閉ぢにけり  高浜虚子 『七百五十句』
 (げしきょうと おもいつつしょを とじにけり) たかはま・きょし

 句意はこうであろう。夏至の日の夕べの作品にちがいない。時間を忘れて書に向かっていた虚子は、ふと「今日は夏至だった。日が永いことも忘れて読み耽ってしまっていたなあ」と、書物を閉じたことでしたよ、となろうか。
 6時には夕食の膳が整えてあるのに、明るさにうっかり準備が遅くなってしまうなど、主婦でもありそうだ。

 4・伸びきつて夏至に逢ふたる葵かな  正岡子規 『子規歳時』
 (のびきって げしにおうたる あおいかな) まさおか・しき
 
 句意はこうであろう。明治29年6月22日、この日は夏至であった。夏至は毎年6月21日か又は22日である。葵(アオイ)の花期は6月から8月。子規は、寝ている部屋のガラス戸越しに葵が咲いているのを見た。「伸びきって」とあるから、まっすぐに伸びて花を付ける「立葵」は、まさに今日の夏至の日に間に合あったのだ。
 「夏至に逢ふたる」という表現は、すくすくと上へと伸びて下から順に花を咲かせる「葵」の姿であり、空に向かって伸びると言わず、ずんずん伸びて行ったら葵は夏至に逢ったのですよ、というのである。
 「夏至」と感じるのは、明け方の早さであり、夕べの暮れ方の遅い明るさである。この句は夕方を詠んでいるように感じた。
 
 子規は、この頃は1年に数回は外出することもあったが、寝て過ごすことがほとんどであったという。寝ていても考えることは俳句革新であり、短歌革新であり、文章革新であった。新聞に記事を書いていた。常に前向きの精神がエンジンの働きをしたに違いない。