第六十夜 矢島渚男の「梟」の句

  梟の目玉みにゆく星の中  矢島渚男 『天衣』
 
 鑑賞をしてみよう。
 
 ふくろう科の鳥はみな夜行性。しかし「梟(フクロウ)」は、ミミズクとよく似ているが、フクロウには頭の脇には耳のように直立した耳羽がない。一年中棲んでいるが冬の季語である。鳴き声の「ゴロスケホーホー」の哀愁のある鳴き声は、冬の夜に炬燵にあたりながら聞くにふさわしい。
 信州に生まれ信州で生活している作者は、フクロウの住む山中や森に詳しいに違いない。夜行性のフクロウは、夜は目を見開いて、野鼠や昆虫や小鳥などを捕食する。そのための目玉である。
 突然、フクロウの目玉を見にゆこうと思い立った・・。
 むかしむかしの、子ども時代の頃のことだろうか。
 理科で学んだ晩、仲間たちと森に出かけたのか。
 大人になって、句会の吟行で見に行ったのか。
 フクロウがいるという森に入ると、冬木立の上は満天の星空であった。瞬く光は、フクロウの目玉なのか一等星の輝きなのかどちらなのだろう。星の中に目玉を見にゆくことは、簡単ではないのだ。
 
 矢島渚男(やじまなぎさお)は、昭和八(1935)年長野県丸子町生まれ。昭和三十二年石田波郷に師事。波郷の没後は「寒雷」の加藤楸邨、寒雷の同人である森澄雄の結社「杉」に参加、師事。平成八年に「梟」を創刊主宰。加舎白雄、与謝蕪村の研究者であり、芭蕉の「おくのほそ道」を「梟」誌上で連載。平成二十八年、句集『冬青集』で第50回蛇笏賞を受賞した折のの自己紹介が、「私は一匹オオカミならぬ一匹フクロウ」であったという。
 もう一句紹介してみよう。
 
  刻々と瀧新しきこと怖し  『梟』
 
 「瀧」というのは、高いところから落ちる水のことである。しかも、ずっと落ち続けている。落ち続ける瀧を詠んだ作品は名句として残されているが、その落ちてくる水が「新しい」と詠んだ作品は初めてのような気がする。永遠に「新しい」ということは、水源はどこなのか、途切れることはないのか、と考え出すと怖さを感じてしまう。理屈で言えば、水蒸気となって空中に上り、雲になり雨となって再び地上に降ってくるから、生々流転を思えば怖くはないのだけれど。

 『日本の名俳句100選』(中経出版社刊)の編集をした折に、渚男のこれまでの句集を繙くと〈遠くまで行く秋風とすこし行く〉〈やあといふ朝日へおうと冬の海〉という、やさしい言葉であるが、描写する視点の鋭さと新鮮さに出会ったのだった。