第五百九十三夜 一ノ木文子さんの「夕焼のおとしもの」の句

 「ゆうやけこやけで ひがくれて やまのおてらの かねがなる お―ててつないで みなかえろ からすといっしょに かえりましょう」と、歌っていた頃がなつかしい。
 
 夕焼がこれほど好きになったのは、東京から利根川沿いにある茨城県南に越してきてからであろうか。父亡きあとに少しずつ認知症が出てきた母も、黒犬のオペラ(一代目)も、車に乗るのが好き、私は運転が好きということで、ほぼ毎日、一仕事終えた夕方になると、夕日の美しい場所へ、母と犬とミニドライブに出かけた。
 一番好きな光景は、牛久沼に夕日が沈むときの真っ赤な夕日影の帯が向う岸から迫るように伸びてくる坂の上である。
 
 今宵は「夕焼」の俳句を見てみよう。

■夕焼は四季を通じて見られる。壮大で荘厳なのが夏。

 1・海へ向く子は夕焼のおとしもの  一ノ木文子 『新版 俳句歳時記』雄山閣
 (うみへむく こはゆうやけの おとしもの) いちのき・ふみこ

 句意は、海を向いたままずっと波を眺めている子。そのぽつねんとした後姿を見ているうちに、我が子であるのだが、いつの間にか誰のものでもない、「夕焼のおとしもの」のように思えてきた、となろうか。

 小さな子が大きな砂浜に着くや波打ち際まで行って、波の動きを飽かずじっと見つめている。ザブーンと勢いよく寄せる波、その波に足をとられて転んでしまいそうな引く波のつよさ。
 やがて、太陽は傾きはじめ、水平線に沈みはじめている。夕焼がだんだん濃くなってゆくなかで、子の後姿の影がだんだん黒さを増してゆく。
 一ノ木さんは、我が子が「夕焼のおとしもの」かもしれないとふっと思った。
 たとえば、ブランコを勢いよく漕いでいる子が、風に攫われてしまうのではないかと、瞬間感じてしまうことがあるように。
 
 一ノ木文子さんは、「寒雷」「炎環」の同人。石寒太主宰の「炎環」の小句会が石神井公園で行われていたとき、ご一緒したことを思い出している。

 2・二十六聖人大夕焼に合掌す  能村登四郎 『現代俳句歳時記』角川春樹編
 (にじゅうろくせいじん おおゆうやけに がっしょうす) のむら・としろう

 日本二十六聖人(にほんにじゅうろくせいじん)は、今から400年ほど昔、1597年2月5日(慶長元年12月19日)豊臣秀吉の命令によって長崎で磔の刑に処された26人のカトリック信者のこと。豊臣秀吉のキリシタン禁教令によって西坂の丘で磔にされた。26人のうち、日本人は20名、スペイン人が4名、メキシコ人、ポルトガル人がそれぞれ1名であり、すべて男性であった。
 26人が1862年6月8日列聖して100年目の1962年に、現在の日本二十六聖人記念碑は、この西台の丘(西台公園)に、大浦天主堂に向いて建てられた。
 私が長崎に住むようになったのは1967年(昭和42年)であったから、長崎駅近くの日本二十六聖人記念碑はよく覚えている。26人の足がみな、宙吊りに浮いていた。昇天を表しているのだろう、祈りの姿は厳かであった。
 
 能村登四郎氏が日本二十六聖人記念碑を訪れたのは夕方。長崎の日没は東京より40分ほど遅い。しかも長崎は暑い。遅い日没の夕焼は見事に赤々として荘厳であったと思われる。

■夕焼の空

 3・大夕焼一天をおしひろげたる  長谷川素逝 『ホトトギス 新歳時記』
 (おおゆやけ いってんをおし ひろげたる) はせがわ・そせい

 4・夕焼より頭上の夜に眼を移す 川崎展宏 『山本健吉 基本季語五〇〇選』講談社
 (ゆやけより ずじょうのよるに めをうつす) かわさき・てんこう

 3句目、夕焼の赤が西空いっぱいに広がっている。東から日は暮れてゆくが、しばらくは大夕焼の赤の力が強くて、天を押し広げようとしているように見える。
 4句目、「おしひろげた」赤い夕焼が、「頭上の夜」に押されはじめた一天の光景となったことに気づいた川崎展宏氏の作品である。
 
 この2句は、別々の歳時記から見つけたが、並べてみると夕焼から夜にいたる天空の姿が見えてくるようではないか。
 
 茨城県の空は、関東平野の真ん中にあって広々としている。仕事で東京からハイウェイで守谷まで戻るとき、冬至の頃だったと思う、天の赤い夕焼と黒の夜との鬩ぎ合いを眺めたことがあった。面白いと思った。