第五百九十四夜 島津 亮の「蚕豆むく」の句

   夏の畑仕事               徳富蘆花
   
 空ではまだ雲雀(ひばり)が根気よく鳴いて居る。村の木立の中では、何時の間にか栗の花が咲いて居る。田圃の小川では、葭切(よしきり)が口やかましく終日騒いで居る。杜鵑(ほととぎす)が啼いて行く夜もある。梟(ふくろう)が鳴く夜もある。水鶏(くいな)がコトコトたゝく宵もある。蛍が出る。蟬が鳴く。蚊が出る。ブヨが出る。蝿が真黒にたかる。蚤(のみ)が跋扈(ばっこ)する。カナブン、瓜蠅(うりばえ)、テントウ虫、野菜につく虫は限りもない。皆生命だ。皆生きねばならぬのだ。到底取りきれる事ではないが、うつちやつて置けば野菜が全滅になる。取れるだけは取らねばならぬ。此方も生きねばならぬのである。手が足りぬ。手が足りぬ。(略)
                   『みゝずのたはこと』岩波書店
 
 あらきみほ編著『毎日楽しむ名文 365』に選んだ文章であるが、ここ10年近く畑仕事に夢中になっている夫の毎日に重なっているところが痛快で紹介した。草取り、虫との闘いなど、毎日のように聞かされる。
 私は畑仕事には一切関わらないと決めていて、料理だけ参加している。10年も経つと、近頃収穫してくるナスはふっくり柔らかい! 昨日は焼き茄子が上手に出来上がった!
 「今日の焼き茄子は上手くできたな!」と夫。「いえいえ、美味しいナスだったからですよ!」と私。
   
 今宵は、「蚕豆(そらまめ」の句を紹介しよう。

■剥く

 1・おやゆびの親だすごとく蚕豆むく  島津 亮 『蝸牛 新季寄せ』
 (おやゆびの おやだすごとく えんどうむく) しまず・りょう
  
 2・そらまめ剥き終らば母に別れ告げむ  吉野義子 『新歳時記』平井照敏
 (そらまめむき おわらばははに わかれつげむ) よしの・よしこ

 3・そら豆の大方莢の嵩なりし  稲畑汀子 『ホトトギス 新歳時記』
 (そらまめの おおかたさやの かさなりし) いなはた・ていこ

 1句目、莢から出した粒は、次に皮を剥かなければならない。粒の上には、黒くて硬い半月のようなフタがあり、これを外してゆく。蚕豆の1粒は、「おやゆびの先端ほど」であるから、まさに「おやゆびの親だすごとく」になる。自分の「親指の親」をつくづく眺め、うーん、なるほど蚕豆の大きさだ、と喝采した。
 2句目、おそらく実家に戻っていた吉野義子氏が帰ろうとした時、母から「そらまめ剥きを手伝ってね」と頼まれたのだろう。母1人の手では大仕事だからだ。お喋りも交えて時間をかけて剥き終えて、今度こそ別れを告げた。
 3句目、この作品こそが、蚕豆剥きの大仕事を終えた証拠の「莢」と「皮」の嵩である。蚕豆を笊一杯に入れた後は、大きなビニール袋にぎゅうぎゅう詰めとなったゴミの嵩であった。

 この3句は、蚕豆を剥く作業に焦点をあてたもの。畑から収穫してくる蚕豆は莢に収まっていて1つの莢には蚕豆が3粒か4粒入っている。硬い莢と皮を指で剥くのはなかなかの作業である。
 
■食べる

 4・そら豆はまことに青き味したり  細見綾子  『桃は八重』『蝸牛 新季寄せ』
 (そらまめは まことにあおき あじしたり) ほそみ・あやこ

 今年は、わが家でも何回もたくさんのそら豆を剥いた。親指が深爪のようになってジンジンと痛んだ。だが、そら豆は炊込み御飯となり、中華風炒めものとなり、サラダになり、もちろん、皮付きのまま塩茹にした酒の肴となった。
 
 掲句は、細見綾子の代表句の1つである。30年ほど前にこの作品に惹かれたのは、平明に且つ鋭くそら豆の味を「青き味」と言い切っていたところであった。だが、「青き味」を実感したのは、わが家の畑でそら豆を作るようになり、採れたて、剥きたて、茹でたてを食べてからのような気がしている。
 つまり、そら豆の新鮮なうすみどり色を「青」と見、口にした時の爽やかさを含めた新鮮な感性が「青き味」であった。

 夫の沢木欣一は、俳句の純粋さを細見綾子から学んだと言っている。「人物が無邪気というか。こせこせしていないというか、無欲なんですね。純粋といえるでしょうね。ただ作ることだけ楽しんで花を見てもその良さに没入するようなところがありますね。丹波の山奥で育っているから、そういう点では小さい時から自然が体の中に入ってるんでしょうね。」(俳句文庫『沢木欣一』より、春陽堂刊)