第五百九十七夜 高浜虚子の「夏山」の句

 7月1日は「山開(やまびらき)」の日。去年はコロナの影響で行われなかった富士山の山開が、山梨県側で早朝の午前3時に行われたというニュースが流れた。7月1日から9月10日までの夏山シーズン中に、入口や5合目、山小屋などが連携して感染防止対策を徹底しながら、登山者を受け入れていくことになるという。
 
 わが出版社の仕事は切りのない果てのない忙しさであったので、仕事から離れるには東京の練馬区から富士山や富士五湖までのドライブがよい息抜きとなっていた。登山ではないので、富士スバルラインに入って終点の五合目までだが、雪のない季節の富士山を間近で仰いだ。
 現在は、茨城県在住となり、山と言えば「筑波山」となったので、〈富士山へ筑波山より御慶かな〉と詠んだことがある。
  
 今宵は、「山開」「夏の山」の作品を見てみよう。

■夏の山

 1・夏山の襟を正して最上川  高浜虚子 『七百五十句』
 (なつやまの えりをただして もがみがわ) たかはま・きょし
  
 昭和31年の作で、詞書には「6月5日・6日 猿羽根峠。」とある。「猿羽根峠(さばねとうげ)」は、羽州街道の道中でも難所として知られていて、かつて尾花沢から新庄へ至るための主要な峠として、たくさんの人々が行き交っていた。
 便利堂刊の『虚子百句』には、高浜年尾の鑑賞がある。「羽黒山に遊ぶ時に最上川に沿うて下つた。或る所の其対岸の山は美しい山並であつた。重なり合つてゐる襞は殊に美しかつた。それを襟を正してといつたのは作者の感じである。」
 
 『蝸牛俳句文庫 高浜虚子』の編著者の本井英氏は、山々の重なりの美しさもあろうが、次のように鑑賞されている。「当然、虚子胸中の思いはかつてこの地を訪れた芭蕉、子規へと及んでいた。夏山同様作者自身も「襟を正す」気持ちでいるからだ。」
 私も、「襟を正す」の解釈は本井英氏の考えに賛成である。虚子は、芭蕉や子規へ想いを馳せていたのだと感じた。
 『七百五十句』には、前日の6月4日に詠まれた〈懐しや子規が浴みせし山の出湯〉が収められている。

■青嶺

 2・分け入つても分け入つても青い山  種田山頭火 『現代俳句歳時記』角川春樹編
 (わけいっても わけいっても あおいやま) たねだ・さんとうか 

 この句は、山頭火の代表句で、次の長い前書がある。
 「大正15年4月、解くすべもない惑ひを背負うて、行乞流転の旅に出た」

 2年前の大正13年、酒に酔って熊本市の電車を急停車させ、市内の曹洞宗報恩寺に連行され、これを機縁に出家得度し、曹洞宗瑞泉寺の堂守となるが、大正15年には堂守を辞して行乞放浪の旅に出る。直後に荻原井泉水主宰の「層雲」に投句した作品の1つであろう。
 
 前書の「解くすべもない惑ひ」とは、10歳の時に井戸へ投身自殺をした母を見たことに始まる種田家の破綻があり、山頭火自身も酒癖の悪さ、妻子を置いて家を出たことなど深刻すぎる生き様を背負って家を出た。墨染の一杖一鉢一笠で漂白の旅に出た。この時から行乞の旅は死ぬまで続いた。歩きながら生命感の溢れる自然と一体化した自由律俳句を作ったことで、山頭火自身も癒やされていった。
 
 山頭火は境涯的心境句を詠み、日記を付け、文章も書いている。遺稿『愚を守る』でこう述べている。
 「無芸無能の私のできる事は二つ。二つしかない。歩くこと――自分の足で/作ること――自分の句を/私は流浪するしかないのである。――詩人として・・・」と。
 
 山頭火の〈歩く〉視点で詠まれた自由律俳句は、たとえ哀しみを詠んでも明るさを感じさせるし、つい口ずさみたくなる愛誦性があり、人を惹きつける不思議さがある。