第五百九十八夜 あらきみほの「睡蓮」の句

 今宵は、かつて書いたつれづれ俳句から「睡蓮に思う」を見ていただくことにする。

つれづれ俳句
睡蓮に想う

 六月のある日曜日、そろそろかなと夫を誘って、石神井公園へ睡蓮の花を見に出かけた。睡蓮は別名未草(ひつじぐさ)とも言われ、未の刻(午後二時)頃に開く花である。お昼少し前の三宝寺池に着いたとき、完全に開ききってはいなかったが、たくさんの睡蓮の花に出逢えた。日本古来の睡蓮の品種は花が小さいが、ここの睡蓮は外来種で花が大きく、色は紅、黄、白と、あざやかである。
 夫はいつものようにゆっくりと時間をかけて花にカメラを向けている。白の睡蓮に焦点を合わせているようだったので、私もファインダーを覗かせてもらった。水面すれすれに花を置いた睡蓮が大きくズームアップされていた。
 乳白色の花は、ちょうどモネの絵のような濃い緑色の池面に、静かな佇まいの気高い様子を見せて、人の顔のようであった。
 その時、『サロメ』を思い浮かべた。
 極端に簡素化され、中央に階段が一つ置かれただけの舞台装置に、顔だけ歌舞伎役者のような白塗りの役者が現れる。
 衣装は白と黒。真っ赤に塗られた口紅、豊かな金髪、青い目が効果的な舞台上の色彩となっていた。
 台詞は英語で、二倍くらいに間延びして発音され、母音は伸びきっている。
 「アーイ ラーブ ヨカナーン!」
 その台詞に合わせた彼らの動きは、手も足も目も、水底のダイバーのようでもあり、パントマイムのようでもある。
 数年前、テレビのチャンネルを何気なく廻していたら出逢った、オスカー・ワイルドの悲劇『サロメ』の舞台中継である。
 白塗りの顔というのは役者から表情を消してしまう。ヨカナーンに愛を語るときのサロメは清楚であり、思うようにならなくてヨカナーンに毒づくときのサロメの赤く塗られた口は、醜いものと変わる。演出家はおそらく、「能」の舞台をイメージしたものと思われる。

 月のひどく美しい饗宴の夜であった。ユダヤのヘロデ王は、兄王を殺して手に入れた兄王の王妃であったヘロデアの娘、王女サロメをいつまでも舐めるように目で追いつづけている。客人の若いシリア人もまた。王女サロメを見てばかりいた。
 その時、地の底から澄んだ声が聞こえた。ヘロデ王に捕らえられ、何年も牢に閉じ込められている予言者ヨカナーン(バプテスマのヨハネ)の声である。ヨカナーンはサロメの母、現王妃ヘロデアの罪業を叫びつづけている。その声を聞いたサロメは、ヨカナーンを一目見たいと、牢屋から連れ出すよう命じた。地上に連れ出されたヨカナーンは、美しいサロメを見ようとすらせず叫びつづけた。その凛とした声、月のように清らかな横顔、象牙のように冷たい男ヨカナーンに、サロメはたちまち魅かれてしまった。

 サロメはヨカナーンにささやく。
 「わたしはそなたの肌に恋焦がれている。そなたの肌は白い、野に咲く百合のように。そなたの肌にさわらせておくれ。」
 「そなたの髪の毛は黒い葡萄のようだ。そなたの髪の毛にさわらせておくれ。」
 「あたしの欲しいのはそなたの赤い唇だよ。そなたの唇にくちづけさせておくれ。」
 
 だが、ヨカナーンはサロメのどのような甘い言葉、どのような威しの言葉にも屈することはなく、相変わらず、静かな横顔を見せている。
 宴はたけなわとなり、ヘロデ王は何度もサロメに踊りを所望した。
 ついに、サロメはヘロデ王にどんな褒美の品もくれると誓わせて、素足になり、七つのヴェールの踊りを舞った。 踊り終えたサロメが望んだ褒美の品は、サロメの愛に決して応えようとしなかったヨカナーンの首であった。
 ヘロデ王は困ってしまった。
 ヘロデ王は、予言者ヨカナーンの言葉を半ば恐れ半ば信じていたので、ヨカナーンを殺せば何か禍を生じるのではないかと怖くなったが、サロメの望みは頑として何としても変わらなかった。
 やがて、首斬役人によってサロメの前に、大皿にのせたヨカナーンの首が差し出された。
 王女サロメは、ヨカナーンの首を掻き抱き、その唇に今こそ、くちづけをしたのであった。どのような男にも心魅かれたことのなかったサロメが、ヨカナーンを愛してしまったのだ。欲しいと思って手に入らないものなどなかったサロメであった。そのサロメに決してなびくことのなかったヨカナーンに、王女の誇りと生娘の誇りを奪ってしまったヨカナーンに、サロメは王女として出来得るかぎりの横暴さをもって権力を振るったのだった。ヨカナーンを殺してまでも自分の誇りは守りたかったし、ヨカナーンを自分のものとしたかったのである。
 
 サロメがヨカナーンを愛したのは本心からであった。権力争いの末に夫を殺し、夫の弟であるヘロデ王の妻になるという不倫の罪を犯した母ヘロデアの娘ではあるが、王女サロメは生娘特有の純粋さと無垢な心とをもっていた。サロメのその無垢な心が、予言者ヨカナーンの清浄な心に魅かれ、清い心映えからくるヨカナーンの近寄りがたいほどの美しさを愛してしまったのであった。
 サロメは淫蕩な女でも異常な女でもない。
 サロメの人を惑わす美しさがその夜の異常さを醸しだし、王女という誇りが、あまりに美しく青ざめた月の光が、狂わせた悲劇なのであった。

 池の白い睡蓮は大皿に置かれたヨカナーンの首のようであった。
 ヨカナーンの百合のように白い顔は血の気を失い、青味を帯びた白さであったろう。サロメの凄まじいまでのエゴイスティックな愛のくちづけにもかかわらず、ヨカナーンの顔は浄らかで、その白は、死んでもサロメのものにならなかった矜持の色である。

 この一文を書いたのち、私は〈睡蓮の巻葉ときつつ水に沿ひ〉〈睡蓮の白々とあるヨハネの首〉など詠んでいる。