第五百九十九夜 松本たかしの「睡蓮」の句

 昨夜書いた石神井公園の睡蓮は、私たちが東京の練馬区に住んでいた頃で、30年近く前に書いたものである。当時は、石神井公園の三宝寺池の西側の岸辺に沿ってまあるく睡蓮の座ができていた。最近の様子をネットで検索してみると、現在は、三宝寺池を一面に覆わんばかりである。
 岸辺と水面との高低差は大きくなく、岸辺近くまで睡蓮は茂り、花を咲かせている。夫が夢中になってカメラのシャッターを切った一輪の白い睡蓮を、私もファインダーから覗かせてもらった。あっ! ヨハネの首! なんと無垢で清浄なのだろう、と感じた。
 ヨハネとはイエスの先駆者。イエスの公生涯開始直前の28年ごろ現れ、人々に説教し、罪の悔い改めを説き洗礼を授けた。 イエスもヨルダン川で彼から洗礼を受けた。 のち、ユダヤ王ヘロデを非難して処刑された。この逸話から『サロメ』のヨカナーンとして登場する。
 
 今宵は、「睡蓮」と、別名の「未草」の作品を見てみよう。

■睡蓮

 1・睡蓮や鯉の分けゆく花二つ  松本たかし 『新歳時記』平井照敏編
 (すいれんや こいのわけゆく はなふたつ) まつもと・たかし

 句意は、睡蓮の池は今、茎が伸び、葉が茂り、蓮の花が咲いている。その睡蓮の座をじっと眺めていると葉がぴくっと動く。よく見ると睡蓮の中に、花の二つをかき分けてゆく鯉の口が覗いている、となろうか。
 
 「鯉の分けゆく花二つ」から、美しく咲いている睡蓮の二つの花の間を、かき分けてやってきた鯉の姿が見えてくるので、鯉は睡蓮の花を食べにきたのだろうと思っていた。だが調べてみると、鯉は蓮の葉を食べると書いてある。
 松本たかしは、もしかしたら鯉が葉を食べる瞬間を見ていたのかもしれないが、作品として捉えた光景は、「鯉の分けゆく花二つ」であった。その葉を食べる以前の光景で止めて、作品を仕上げたのであった。

 2・睡蓮開花太陽のほか触るるなし  野沢節子 『新歳時記』平井照敏編
 (すいれんかいか たいようのほか ふるるなし) のざわ・せつこ

 句意は、睡蓮の花が水面に咲いています。天に向って真直ぐに花びらを立てている睡蓮の花に触れることができるのは、睡蓮の真上から照らす太陽の光だけかもしれませんね、となろうか。

 池や沼などの水面に、地下茎が伸びて葉が出て花が咲く睡蓮は、人が近づいて花を剪ったりする場合でも小舟に乗らなければならない。野澤節子氏は、睡蓮の花に触れてみる方法として「太陽」を見つけた。晴れの日には、生きとし生けるものの全てに、また人が作った建物などにも等しく太陽の光は頭上にあって、降り注いでくれる。人が近づいて触れることができない所にも、「太陽」なら触れることができる。
 掲句に、太陽という大いなる自然の力が、地球上の池面に咲く一輪の睡蓮の花にも、等しく注がれることの素晴らしさを感じた。

 3・わが立てば池はモネの睡蓮となる  山口青邨 『寒竹風松』
 (わがたてば いけはモネの すいれんとなる) やまぐち・せいそん
 
 句意は、私が睡蓮の池に佇めば、咲いている睡蓮はモネの睡蓮となるのですよ、となろうか。
 
 毎年のように日展にも行き、美術展があれば必ずのように足を運ばれたという青邨である。海外にも行っているので、クロード・モネの「睡蓮」は多くの美術館で観ていると思う。
 モネは、1883年からはパリから離れたジヴェルニーに居を移し、ここが彼の終の棲家となる。モネがその後半生をかけて取り組んだ『睡蓮』の連作は、ジヴェルニーの自邸に造成した「水の庭」の池とそこに生育する睡蓮をモチーフに制作されたもの。
 
 私も学生時代に、国立西洋美術館のモネ展へ観に行った。ある時は90メートルもある大装飾画の睡蓮が、大きな部屋いっぱいに360度ぐるりと池の睡蓮に囲まれたというか、睡蓮の1部になったような展示も観た。
 
 青邨の自宅の「雑草園」と名づけられた庭には池もあって、睡蓮や蓮も植えられていたと記憶している。ご自分が育てた睡蓮がある日咲いた。立って眺めれば、わが池はモネの睡蓮のように思えてきたのであった。

■未草(ヒツジグサ)

 4・山の池底なしと聞く未草  稲畑汀子 『ホトトギス 新歳時記』
 (やまのいけ そこなしときく ひつじぐさ) いなはた・ていこ

 句意は、山の池には未草が咲いていますが、この池は底なし沼であると聞いていますよ、となろうか。
 
 少し怖いような話だ。というのは、未草(睡蓮の別名)は、水底に根を張った地下茎から長い葉柄をひょろひょろ伸ばし、水面に丸い葉を浮かべ、白い花が咲く。底なし沼であれば地下茎や根はどこから生えるのだろう、という疑問が出てくる。未草の名の由来は、未の刻 (午後2時) 頃に花を咲かせるためとされることが多いが、この頃に花が閉じ始めるためともされる。
 でも奥深い山の池となると、こうした話も生まれるかもしれない。