第六百二夜 山口青邨の「玉葱」の句

 7月6日は、サラダ記念日。歌人俵万智(たわら・まち)の第1歌集『サラダ記念日』は300万部の大ベストセラー。タイトルになった作品は、「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日」である。
 こうした記念日はたくさんある。たとえば、7月6日は「ゼロ戦の日」という呼び名もある。

 初夏の候であり、夫の作る畑でも新鮮な野菜たちが食べきれないほど育っていて、毎朝、犬の散歩も兼ねて畑へ行き、ノエルは何かしら口に入れてもらって機嫌よく戻ってくる。
 サラダ菜など菜っ葉は少し前に終り、キュウリやナスやトマトは毎日、スイートコーンは3日続けて収穫し、今日は枝豆もあった。
 最近は玉葱が大きくなった。新玉葱の頃から少しずつ収穫して提げてきていたが、先日は車で出かけて、ダンボールを一杯にして戻った。皮は茶色くなっている。数個ずつ紐でくくり、軒下と物干し台に吊るしてある。
 
 玉葱は、料理になくてはならない素材だから助かっている。昨夜は、久しぶりに娘にせがまれて、採れたてのスイートコーンと玉葱をメインのホワイトソースのコロッケを作った。固めのホワイトソースの塩梅を忘れていたので、料理ノートを引っ張り出した。このソース作りだけは、バターも粉も分量をきちんと量る。
  
 今宵は、夏の季題「玉葱」の俳句を紹介してみよう。
 
■玉葱の収穫

 1・ただ拾ふごとく玉葱収穫す  山口青邨 『不老』
 (ただひろう ごとくたまねぎ しゅうかくす) やまぐち・せいそん

 句意は、玉葱を収穫するときの様子だが、収穫する頃の玉葱は畑の土の上に、あの丸い玉葱が茎をつけたまま置かれてあるように見える、その茎を掴んで拾うかのごとく引き抜いてゆくのが収穫なのですよ、となろうか。
 
 土の中から抜けばもっと泥が着くはずだが、案外に外側の皮も汚れていない。青邨先生のこの作品を知って、夫の畑に出かけてみた。畝の上にぽんと置かれているように見えるが倒れることはない。長くてもじゃもじゃしている根がしっかり支えていた。
 青邨居の雑草園では花も野菜も作っている。とくに戦時中は大いに役に立ったのではないだろうか。
 青邨俳句は、高雅な作品もあり、写生による第一印象によるズバッと斬り込んでゆく作品もあるが、そこには野菜への愛を感じる。わが家でも夫の作る畑のものを食べるようになって、野菜たちが可愛いらしく思うようになってきた。

■たまねぎ
 
 2・たまねぎのたましひいろにむかれけり  上田五千石 『琥珀』『現代歳時記』成星出版
 (たまねごの たましいいろに むかれけり) うえだ・ごせんごく
 
 句意は、玉葱を剥くと玉葱は白く透き通った色をしている。1枚目を剥き、2枚目を剥いても同じ白い色である。この白さはもしかしたら、玉葱の「たましひいろ」なのではないかと考えましたよ、となろうか。
 
 玉葱の薄皮を剥いてゆくと、剥いても剥いても同じように透き通った白い玉葱である。人間だったら心臓があるし、果物には芯がある。そういった魂に突き当たると思ったがそうではなかった。魂は肉体に宿り、生命を保ち心の働きをつかさどる。この不思議さと白い色を「たましひいろ」と五千石の感性は捉えたのだろう。
 
 上田五千石の『俳句塾』(邑書林刊)に次の語録があった。
 「季語は言葉ではあるが、普通の言葉ではない。(略)それは言ってみれば、感動詞を内蔵する言葉だ。「ああ」花。「おお」雪。「あはれ」秋風。(略)」

■新玉葱
 
 3・新玉葱研ぎしばかりの刃に応ふ  岡本まち子 『現代歳時記』成星出版
 (しんたまねぎ とぎしばかりの はにこたう)

 句意は、新玉葱のために、包丁の刃を研ぎ上げておきました。いざ刃を当ててみると、柔らかい新玉葱は研いだ刃に応えてすうっと切れましたよ、となろうか。

 「応ふ」は「応じる」で、ここでは、新玉葱の柔らかさに応じることができるように包丁の刃を研いでいたことを指す。素材に合わせた研ぎ方である。 
 新玉葱ともう少し日を置いた玉葱と、こう詠まれてみると確かに玉葱の身の柔らかさの違いに思い至る。食事担当であることの多い女性は、俳句を作るために外へ出かけることなく、身の回りにも句材はあると気づかされた。
 岡本まち子さんは、草津市の「伊吹嶺」の同人。