第六百三夜 松本たかしの「金魚大輪」の句

 今日7月7日は七夕の日。俳句の季題では陰暦にしたがって8月7日に祭として行われるが、子が幼稚園や小学校の頃には、太陽暦にしたがって暦どおりの7月7日に行われた。学校行事でも夏休み前の楽しい行事であったが、わが家では、元気な年子の子育ての中で、七夕とクリスマスは無くてはならぬイベントであった。
 何しろ、朝から晩まで言葉を覚えてからずっと、2人は喋りどおし。母の耳はじんじんしてくる。だが、七夕飾りももクリスマス飾りも、2人の子に教えながら一緒に作る。色紙をたくさん用意して、最初はお星さまを作る。星型に切り、笹に飾るように紐を付ける。次に輪飾りを作る。最後に短冊を作り、願い事を書く。午後にやっと出来上がるほど時間がかかるが、夢中なので静かな時間が流れる。
 その日の夕食時、再び喋り出す子を前に、母の私は、濃い目のウィスキーで、耳と脳を朧にしたことを覚えている。お父さんは仕事で、今夜も帰りが遅い!
 
 今宵は、「金魚」の作品を見てみよう。

■金魚

 1・金魚大輪夕焼の空の如きあり  松本たかし 『松本たかし句集』
 (きんぎょたいりん ゆうやけのそらの ごときあり) まつもと・たかし

 句意は、金魚玉の中で泳ぎ回っている金魚が、翻った瞬間に巨大化され、目に飛び込んだ金魚が大夕焼のようにみえましたよ、となろうか。

 虚子の元で俳句も始めていて、鎌倉に住んで6年ほど経った夏の夕方、たかしは見事な夕焼に出逢った。あまりの美しさに縁側から芝生に降り立って凝っと見ていると、子供の頃から空想化によって馴染んでいた1尾の巨大化された金魚が現れたのだ。湧き上がってくる興奮の中で、たかしは夢中になって俳句にしようとしたという。

 当時は金魚を飼うといえば丸い金魚玉、その金魚玉の中で鰭を翻して泳ぎまわる赤い金魚。丸いガラスは拡大レンズとなり、金魚が手前にくると鱗が大きくクローズアップされ、一つ一つの鱗は様々な色合いに蠢き輝きはじめ、金魚玉は一面紅の綾錦(あやにしき)となる。 金魚の鱗から大魚のように見える様を「金魚大鱗」と言い止め、真夏の空を覆いつくす大夕焼のようだと比喩したのだ。
 1尾の金魚から夕焼という大きな比喩であるために、詩的飛躍の力は大きい。
 初句は〈金魚大尾夕焼空の如くなり〉であった。「大尾」を「大鱗」と推敲し、「夕焼空」に「夕焼の空の如き」と「の」一文字を加えることで、句姿も金魚もゆったり漂う感じとなった。

 松本たかし著『能俳壇』(阿寒発行所)に、掲句について書かれた箇所を見つけた。たかしは、物心ついた時分から、特に大柄な金魚の美しさに心を奪われていて、水族館では何時間でも眺めていた。大きくなってからは、眠れない夜の瞼の裏にぽっかりと金魚が浮かぶことがあったり、歩いていると脈絡もなく、大きな一尾の金魚が街行く人の頭上に浮かんで見えたりしたのだという。

 2・一本の道を微笑の金魚売  平畑静塔 『現代歳時記』成星出版
 (いっぽんの みちをびしょうの きんぎょうり) ひらはた・せいとう

 句意は、金魚売のおじさんの「きんぎょ-え、きんぎょー」という呼び声がくりかえしくりかえし、一本道の遠くから、ずっと聞こえてくる。にっこり笑みを湛えながら呼びかけている声ですよ、となろうか。
 
 「微笑の」があることで、この作品は、一本の道も金魚売のおじさんの声もやさしさで溢れてくる。おじさんの声を聞いただけで、子どもたちが引き寄せられるように集まってくる。金魚を買うためでなく、金魚売のおじさんとお喋りがしたくなるのだ。
 おじさんも、誰一人、金魚一匹、買おうとしなくても構わない。いいなあ!
 ほんとは、「おじさん、今夜のご飯は大丈夫?」と訊きたい気持ちが起こるけど・・。