第六百五夜 高野素十の「百合の前」の句

 もう20年ほど前になるが、真夜中に東京練馬を出発して東北道を走り、福島を過ぎてしばらくゆくと、確かハイウェイの車線は2車線に減っていたと思う。中尊寺へ近くなり、夜も白みはじめると、東北道の脇に植えられたものであろうか百合の花がほつほつと咲いているのが見える。車が高速で抜けるたびに百合の花は風圧を受けてかすかに揺れている。
 その風情ある揺れ方が、挨拶しているようにも見えるが、どこか淋しげな顔のようにも見える。百合の花はずっとそこに佇んでいるのに、車は一瞬で走り去ってゆく。バックミラーやサイドミラーに映っている百合の花のたよりなげが、次々に見えては置き去りにしてゆく。
 
 一関インターチェンジが近づくにつれて、私たちは中尊寺で見せて頂くことになっている、800年の眠りから覚めた蓮の花のことで、もう頭は一杯になっていた。
 だが、夜明けのハイウェイの百合の花のことは、忘れたくないと思った。

 今宵は、季題「百合の花」の作品を見てみよう。

■百合の花

 1・くもの糸一すぢよぎる百合の前  高野素十 『初鴉』
 (くものいと ひとすじよぎる ゆりのまえ) たかの・すじゅう

 句意は、百合は高貴な香を放ちながら咲いている。蜘蛛はその香に引かれて来る獲物の通り道に囲を張りはじめる。揚句は最初の一筋である。白い百合の花の前を、蜘蛛が1本の糸をきらめかせながら斜めに過ぎった。素十は、その瞬間の百合の縦の線と蜘蛛の糸の斜めの線と、2本の交差する直線だけを言い止めた。蜘蛛の糸の1本の直線は、清浄な百合を斜めに過ぎるとき、忽ち不気味な存在となる。

 素十は、感興を起こす要因となる1点だけを表すために、言葉を多く尽くすのではなく、必要にして十分な簡潔な表現法としての〈省筆〉という方法、言葉や文字の省略の錬磨を心掛けた。素十は、「ホトトギス」の昭和3年5月号の「俳句の技巧の見方」で次のように述べている。
 「ここが技巧である。しかし表そうと思つたもとの物は心の鏡にうつゝた相である」と。
 客観写生や客観写生句についても、次のように述べている。
 「然し根本は心─主観と云ふことになるのであります。」
 「所謂末梢的なるものは払い除け払い除け吾々のほんとうの心と云ふものに達しなければならぬ」と。

■カサブランカ:百合の一種
 
 4・百合の香のはげしく襲ひ来る椅子に  稲畑汀子 『現代歳時記』角川春樹編
 (ゆりのかの はげしくおそい くるいすに) いなはた・ていこ

 5・今日殊にカサブランカの香をうとむ  深見けん二 『蝶に会ふ』
 (ゆりことに カサブランカの かをうとむ) ふかみ・けんじ

 6・長き長きエスカレーター百合抱いて  浦川聡子 『現代俳句歳時記』成星出版
 (ながきながき エスカレーター ゆりだいて) うらかわ・さとこ

 4句目、百合は、香の強さが1番のカサブランカであろう。俳句のパーティで主賓席の稲畑汀子氏の横には、カサブランカの大きなスタンドが置かれている。自分の座っている席に、強い香が激しく襲ってきていた。
 5句目、パーティでの句であろうか。それとも、受賞祝いの花束が届いたのであろうか。幾つも戴いてしまった嬉しさとともに、カサブランカの強い香に「もう、たまらん!」となったのかもしれない。「うとむ(疎む)」は、イヤだと思って遠ざけるほどの強い言葉だ。
 6句目、パーティ会場の、3階から1階まで続く長い長いエスカレーターを百合の大きな花束を抱いて降りてくるのは、おそらく当日の主役だった浦川聡子さん。
 
 浦川聡子(うらかわ・さとこ)さんは、石寒太主宰の「炎環」に参加。その後大峯あきら代表「晨」に同人として参加。現在は「オリーブの会」を主宰。平成5年、「管弦楽の闇」により現代俳句協会新人賞を受賞されている。
 6句目の作品の背景は、受賞パーティの会場を出てきた時であろう、「長い長い」から喜びが伝わってきた。

 こうしたパーティで飾られたりプレゼントとして用いられるのは、必ず、花もちが良く上品で豪華な花姿のカサブランカである。よい香りだが、4句目や5句目のように、強すぎる香でもあり花粉も飛び散るので、雄しべの先は、採ってしまうことが多い。