第六十三夜 西山泊雲の「夜半の冬」の句

  土間にありて臼は王たり夜半の冬  大正3年
 
 西山泊雲(にしやま・はくうん)は、明治十(1877)年、兵庫県丹波市の生まれ。西山酒造の長男。明治三十六年に弟の野村泊月の紹介で高浜虚子に師事。当時の虚子は小説に打ち込んでいた時代で、その後、泊雲が再び俳句に情熱を注ぐのは、大正二年、虚子が俳壇復帰後の雑詠欄以降。弟泊月とともに「丹波二泊」の時代を築いた。
 
 一時期「ホトトギス」誌の表紙を飾った画家小川芋銭は、スケッチ旅行で関西に行くと泊雲の家に長逗留することがあった。そうした縁で、芋銭の長女が泊雲の長男謙三(俳号小鼓子)に嫁し、泊雲の長女が芋銭の三男に嫁したという両家の信頼溢れる縁を知った私は、泊雲の俳句に興味を抱きはじめた。西山酒造の銘酒「小鼓」は、高浜虚子の命名であるという。

 虚子が大正四年四月号から二十四回に亘ってホトトギスに連載した「進むべき俳句の道」の中で、虚子が推賞した作家三十二人の一人が泊雲である。大正七年に『進むべき俳句の道』が俳論書として刊行。

 この俳論の中で、虚子が各人の「主観」を称揚したことで、連載の間にホトトギス雑詠欄に安易な主観句が増えてきた。それを見て取った虚子は、次の段階として、写生から、とくに客観写生を唱導してゆくことになる。
 虚子は「進むべき俳句の道」の中で、子規時代の純客観写生から主観句時代へと歩を進めてきたと述べているが、同時に、特に注意すべきこととして写生の重要さを、次のように指導している。
「第一は、主観の真実なるべきこと。
 第二は、客観の写生をおろそかにしないで、どこまでも客観の研究に労力を惜まないやうにすること。
 第三は、素朴とか荘重とかいふ言葉を忘れてはならぬこと。
 第四は、なるべく叙する事柄は単純であつて深い味ひを蔵してゐる句が一番好ましいこと。」

 掲句は、泊雲が虚子に改めて「写生」を喚起された時の作。
 鑑賞をしてみよう。
 
 西山酒造は、1849(嘉永2)年の江戸時代から続く酒造業。土間には泊雲が〈若竹や廻る月日に朽つる臼〉と詠んだ、使い古した朽臼が置かれている。物を乗せたり、蟇がやってきて卵を産み付けたり、日々何気なく見つづけていた臼であるが、改めて写生の目を喚起されると、その朽臼は「王」のような存在感となった。
 「王」という言葉を得た朽臼は、もはや只の古くなった臼ではない。泊雲の生まれるずっと以前から、新年のための餅つきをしていた輝かしい歴史のある石臼である。
 
 泊雲は、大正時代になって虚子が改めて写生を進めていた時期の「申し子」のような存在となった。
 もう一句、紹介しよう。
 
  冴え返り冴え返りつつ春央ば 明治三十九年
 
 泊雲初期の代表作。季重なり、言葉の重なりだが、春とは、このように何度も寒さをぶり返しながら訪れるものだと、改めて思い知らされる。泊雲は「写生の人」として知られているが、この作品は、ここに至った泊雲の苦闘とその後の安寧が見えるようだ。自然の中で自分の心を潜めて写生をしていると、自然の営みの様々に気づき、心は穏やかに安心する。写生句を詠みつづけた泊雲は、『泊雲句集』の巻末記に「俳句は私を救ってくれた慰安である」と書いた。