第六百十七夜 吉野義子の「浴衣」の句

 今日は「下駄の日」。田捨女(おくせんぼん)でん・すてじょ)の〈雪の朝二の字二の字の下駄のあと〉の句を思い出した。
 昨日は、BSテレビの番組で桐下駄を採り上げていた。私は和服を着ないので詳しくはないが、番組の桐下駄はジーンズでも夏のワンピースでも似合いそうな洒落た下駄であった。
 まず、鼻緒から覗く足の指が居心地よさそうに指の形に彫られていた。これまでの真っ平らな下駄でなく、足裏の土踏まずのアーチも丸みを帯びて作られている。注文すれば、その人の足に合わせて作ってくれる。
 下駄底も、これまでの下駄のように、だんだん桐が磨り減ったりすることのないように別の底が貼り付けてあった。鼻緒の美しさもあって、真夏の外出着でも素敵だと思った。
 
 今宵は、クーラーのない時代に工夫してきた真夏の「もの」を紹介してみよう。

■浴衣

  わが浴衣子が着れば子の若さなる  吉野義子 『新歳時記』平井照敏
 (わがゆかた こがきれば このわかさなる) よしの・よしこ

 句意は、着てみたいと子が言ったのであろう、ご自分の浴衣を着せてあげた。地味かと思ったが、着せてみると案外に似合う。子の若さは隠れようもなく浴衣姿に表れていましたよ、となろうか。

■白地(白絣)

  白地きてつくづく妻に遺されし  森 澄雄 『蝸牛 新季寄せ』
 (しろじきて つくづくつまに のこされし) もり・すみお

 森澄雄はある日、出先から戻って玄関を開けると、そこに妻が倒れていた。心筋梗塞の発作であった。追悼句は〈木の実のごとき臍もちき死なしめき〉。妻の側からすれば、「臍」の句が追悼句とは、と思うが、却って深い哀しみが伝わるのではないだろうか。
 毎日、仏壇に向かった。散歩する時も外出の時も、妻が選んでくれたものを着た。今日も、妻が反物を選び仕立ててくれた白地を久しぶりに和ダンスから出して着てみた。
 
 「つくづく妻に遺されし」が、筆者の私にも、わかりかけてきている。どちらが先に死んだとしても、「つくづく遺されし」であろう。夫は激しい性格であり言葉も激しい、応戦する私もなかなか強くなってきている。だが、こうした相手が突然いなくなったら同じように「つくづく相棒に遺されし」と思うであろう。

■甚平

  甚平や一誌持たねば仰がれず  草間時彦 『新版 俳句歳時記』雄山閣
 (じんべいや いっしもたねば あおがれず) くさま・ときひこ

 句意は、私は俳誌の主宰者でもなく一介の俳人である。甚平を着て、こうして俳句を詠みつづけてはいるが、人様からは尊敬されることはありませんね、となろうか。

 甚平あるいは甚兵衛は、男性も子供も着る和装のホームウエアのひとつ。 甚平は「甚兵衛羽織」の略で、江戸末期に庶民が着た「袖無し羽織」が、「武家の用いた陣羽織に形が似ていたことから」とも言われる普段着である。
 
 草間時彦氏は、大正9年の生まれ。水原秋桜子の「馬酔木」、石田波郷の「鶴」に学んだ。自身が結社を持って主宰者となることはなく、俳人協会理事長を長いこと勤めた。グルメ俳句に〈大粒の雨が来さうよ鱧の皮〉がある。俳人協会の図書館に調べ物で通うことがあったが、お公家さんかと思う品のよい笑みを浮かべていた。

■夏袴

  夏袴羅にしてひざ正し  高浜虚子 『新版 俳句歳時記』雄山閣
 (なつばかま うすものにして ひざただし) たかはま・きょし

 句意は、羅(うすもの)の夏袴姿で、きちんと正座をしていましたよ、となろうか。

 高浜虚子は、大勢の門弟がいて可能な限りの句会に出席している。また、ホトトギスの会員の婚礼や葬式なども必ずのように出席している。その際に紋付袴であり、袴の背に、贈答句の短冊を差している姿の写真を見たことがある。人に対しても自然に対しても、もちろん俳句に対しても、ひたと向かい会っている。
 
 虚子は、『虚子俳話録』で「心を労する方でしょうね。」と、自身を評していた。