第六百二十一夜 松尾芭蕉の「雲の峰」の句

 今日はポツダム宣言記念日。1945年7月26日の「ポツダム会議」において、大日本帝国に対して発した13条から成る降伏勧告の宣言。8月10日、大日本帝国は宣言の受諾を連合国側へ伝達。15日、玉音放送により太平洋戦争終結を伝え、9月2日、降伏文書に調印。
 玉音放送の冒頭は次のようである。8月15日の終戦記念日には、ニュースで必ず昭和天皇の声が流れる。天皇は自分のことを「朕(ちん)」と呼んでいたことを、戦後生まれの者にとっては不思議な感覚で聞いている。

 「朕(ちん)、深く世界の大勢と帝国の現状とに鑑み、非常の措置をもって時局を収拾せんと欲し、ここに忠良なるなんじ臣民に告ぐ。
 朕は帝国政府をして米英支蘇(べいえいしそ)四国(しこく)に対し、その共同宣言を受諾する旨(むね)通告せしめたり。(略)」※米英支蘇とは、アメリカ、イギリス、中国、ソ連のこと。

 私たち日本人は、今、戦争のない国にいるのだと、ポツダム宣言記念日の今日、改めて思った。
 
 今宵は、松尾芭蕉の「雲の峰」の作品を紹介しよう。

■芭蕉の出羽三山詣より

 1・涼しさやほの三か月の羽黒山
 (すずしさや ほのみかづきの はぐろさん) 【涼しさ・夏】
  
 2・雲の峰幾つ崩れて月の山
 (くものみね いくつくずれて つきのやま) 【雲の峰・夏】
  
 3・語られぬ湯殿にぬらす袂かな
 (かたられぬ ゆどのにぬらす たもとかな) 【湯殿詣・夏】

 季題「雲の峰」の例句として選んだのが、2句目の〈雲の峰幾つ崩れて月の山〉だが、この作品は、芭蕉が「奥の細道」の旅の行程の中で主要な出羽三山巡礼の1つの月山の句である。まずは、「奥の細道」の順に従って見ていこう。
 羽黒山はこの三山の最初の順路。芭蕉は門弟が羽黒行者の宿をしていることからここで一泊し、羽黒山住職会覚阿闍梨(えかくあじゃり)の山荘でもてなしを受けた。翌日、信仰の登拝者と同じいでたち・・精進潔斎をして身を清め、木綿(わら)しめというものを首にかけ、白布で頭を包み、身支度も法に従わねばならない・・を整えて、強力(ごうりき)を連れて月山を登り、山小屋で一泊して夜を明かし、翌日は湯殿山に詣でて、羽黒山に引き返した。※阿闍梨とは、密教系の僧。
 
 1句目、杉木立の多い羽黒山の黒々とした木立を透けて、空気の澄み切った山の空にほのかに淡く光っている銀泥のような三日月を配して、羽黒山の句を詠んだ。
 2句目、月山は三山の中では1番高く、海抜1924メートルである。麓から見上げると、入道雲が真夏の山に次々と湧いては崩れてゆく。赤羽学先生は、「芭蕉は、雲の峯は崩れるものとして詠まれるが、崩れるのは1日のことではなく、悠久の繰り返しを詠んだとすべきである。」と、『蝸牛俳句文庫 松尾芭蕉』で考察している。
 3句目、「語られぬ」の解釈が難しいが、「惣而(そうじて)此山中の微細、行者の法式として他言する事を禁ず」とあるので「語られぬ」とした、とある。湯殿山は恋の山と言われ、その縁で「湯殿にぬらす袂」と詠まれたとも言われている、と赤羽学先生は解説された。
 
 この3句は、羽黒山住職会覚阿闍梨から「三山巡礼の句を書いてほしいと求められて書いたものであるという。

 『芭蕉名句』荻原井泉水著、『芭蕉の俳諧』暉峻康隆著、『おくのほそ道 全注釈』久冨哲雄著、『蝸牛俳句文庫9 松尾芭蕉』を参考とした。