第六百二十四夜 山口誓子の「夕焼けて」の句

   名優の台詞       宇野信夫

 六代目菊五郎の亡くなる3、4日前、元の支配人の牧野という老人が見舞いに来た。見ると、六代目はもう口をきくこともできない。牧野老人は六代目の手をとって、思わず声をあげて泣いてしまうと、枕もとにいた人も、手巾(ハンカチ)を眼にあててシクシク泣きだしてしまった。すると、六代目は薄眼をあけ、小さな声で、
 「まだ早いよ」
 と言った。名優は、命の瀬戸際になっても、名ゼリフをはくものだと、六代目没後、牧野老からこの話をきいて、しみじみ思ったことがある。(『しゃれた言葉』宇野信夫)

 ※宇野信夫(うの・のぶお、1904年7月7日 – 1991年10月28日)は、日本の劇作家、作家、歌舞伎作者、狂言作者。
 
 六代目尾上菊五郎は大正・昭和時代に活躍した歌舞伎役者。歌舞伎界で単に「六代目」と言えば六代目尾上菊五郎を指す。殊に藤娘、道成寺などの娘役の舞踊が得意。歌舞伎界で初めて文化勲章を受賞。
 
 今宵は、「夕焼」の作品を見てみよう。

■1句目

  夕焼けて西の十万億土透く  山口誓子 『晩刻』第7句集
 (ゆうやけて にしのじゅうまん おくどすく) やまぐち・せいそん 

 山口誓子は、明治34年、京都市の生まれ。母の死により12歳の時に樺太の外祖父の元で暮らした。その後、京大三高から東大へと進む。ホトトギスでは「四S」の作家となったが、ホトトギスを離れ、新興俳句、戦後には「天狼」を創刊し、戦後には近代手法の「二物衝撃」による「生命の根源を掴む俳句」を目指した。
 
 誓子は昭和16年から同28年までの12年間、三重県鈴鹿市富田の海岸で療養生活を送った。この地で芭蕉を学び直し、作句に努めていた。代表句となった〈海に出て木枯帰るところなし〉はこの地での作であり、誓子の突き進む生き方そのもののように感じている。
 
 掲句は、昭和21年の作。眼前に炎え拡がる大夕焼をわが身に引き較べてこの句を得た。それは見事な夕焼であったという。
 句意は、西の天、真紅に夕焼け、一切空。遥かに遥かに十万億土が見える。透いてありありと見えると、誓子は「私の旅日記」の中に書いている。
 「十万億土」とは、この世から西方の極楽浄土に行くまでにある無数の仏土。また、極楽浄土のこと。
 美しく荘厳な夕焼に立てば、あたかも十万億土の彼方にあるという西方弥陀の浄土が透き通って望まれるかの様であると、誓子は忘我の心境を詠んだ。

 この作品は、和歌山県県北部の高野山山頂の真言宗の総本山金剛峯寺に句碑となって建てられている。

■2句目

  歩を進めがたしや天地夕焼けて  山口誓子 『晩刻』
 (ほをすすめがたしや てんちゆうやけて) やまぐち・せいし

 筆者の私が、一面の真っ赤な大夕焼のどまん中に嵌まってしまったと感じたことが1度ある。諏訪湖で遊んだ帰りの中央自動車道(中央道)でのことであった。真夏の激しい驟雨の中をしばらく走る間に雨は止んだ。雨が止む頃には夕暮れとなり、夕焼け空がハイウェイの空を覆いはじめた。
 
 空中には湿気が充満していたのだろう。夕焼の色は湿気と混じり、一面は赤い霧となって辺りを覆い尽くしたのだ。運がよいというべきか、夏休みで遊んだあとの東京へ向かう車線はひどく混んでいたが、この赤い霧の中で、どの車もスピードを出すこともできずに、安全運転で走ることが出来た。
 
 誓子の作品は、見事な夕焼に出合ってしまって、あまりの美しさに、離れがたく思ったのであろう。一歩も進むことも出来ずに天も地も夕焼けている真ん中で佇んでいるだけであった。