第六百二十五夜 原石鼎の「落し文」の句

 2020年の8月、長崎県島原の夫の生地を娘と訪ねたときのこと。夫の妹夫婦の案内で島原城を囲むように武家屋敷が並び、今も住んでいる屋敷もあった。
 島原城を築いたのは有馬晴信の後の松倉重政で、戦にも民にとってもよく考えられた築城であったという。遺されている武家屋敷は、敷地内に入ることも土間から室内を見学することもできる。門の外には、道の真ん中を湧水が涼しげに流れている。飲み水にもなる生活用水であったようだ。
 この武家屋敷の前の湧水の流れに沿ってぶらぶら歩いていたとき、落し文を見つけた。次の2句はその時に詠んだもの。
 
  武家屋敷の垣に落し文ひとつ   みほ
  落し文さても不思議と開けてみし  々

 今宵は「落し文」の作品を見てみよう。

■1句目

  音たてて落ちてみどりや落し文  原 石鼎 『新歳時記』平井照敏編
 (おとたてて おちてみどりや おとしぶみ) はら・せきてい

 木から何かが落ちてきた。地に落ちるとき軽く音がした。見ると緑色の葉っぱが丸まった形である。あっ、もしかしてこの形は「落し文?」かもしれないと思った。井沢正江さんの〈解きがたくして地に返し落し文〉の作品のように、原石鼎も初めて拾った落し文を不思議にも思い、中はどうなっているのだろうとも思い、もしや何か書いてあるかもしれないという考えもチラッと浮かびながら、開けてみたかもしれない。
 
 夏の季題「落し文」とは、歳時記の「動物」に分類されていて、「おとしぶみ」というぞうむし科の甲虫。ナラ、クヌギ、クリなどの葉をくるくる筒状し巻いて、そこに1粒の丸い卵を産むという。くるくる巻いた形で枝にぶら下がって揺りかごとなり成長してゆくが、時には地に落ちてしまうこともある。
 地に落ちた、卵の入った葉は、その形から「落し文」という何とも床しい名が付けられた。
 
 原石鼎は、明治19年、島根県出雲の生まれ。渡辺水巴、原石鼎、前田普羅、飯田蛇笏、村上鬼城など個性ある作家たちは大正初期の「ホトトギス」黄金時代を作った。「鹿火屋(かびや)」を創刊・主宰。

■2句目

  手にしたる女人高野の落し文  清崎敏郎 『蝸牛 新季寄せ』
 (てにしたる にょにんこうやの おとしぶみ) きよさき・としお

 奈良県宇陀市室生にある真言宗室生寺派の大本山で、俗称が「女人高野」である。
 奈良に遊んで多くの寺院を歩いたが、その中で、室生寺の平安初期に建造されたという五重塔の「可憐」とも称される五重塔の美しさに惹かれたことを思い出した。
 
 掲句は、清崎敏郎がその室生寺の境内で見つけたのは落し文。中七に「女人高野の」とあることで、それだけで手にした落し文は価値ある落し文である。オトシブミ科の甲虫ということを一瞬でも忘れさせてくれて、恋文をもらったと思わせてくれる。
 
 清崎敏郎は、大正11年、東京生まれ。俳句は「若葉」の富安風生、「ホトトギス」の高浜虚子に師事。慶応大学在学中に民俗学者の折口信夫に師事した。「若葉」を継承。

■3句目

  中堂に道は下りや落し文  高浜虚子 『六百五十句』
 (ちゅうどうに みちはくだりや おとしぶみ) たかはま・きょし

 「昭和21年7月26日 埼玉不動岡、樝子(しどみ)会員来る。小諸山廬」の詞書がある。樝子(しどみ)は、ホトトギスに所属する俳句会の名前。
 「埼玉不動岡」は、加須市にある不動ヶ岡不動尊總願寺のある地名である。この日、埼玉不動岡に住むホトトギスの俳句会「樝子」の会員たちが、疎開先の小諸山廬の虚子を訪ねて来て、句会をした。すでに終戦となっていたが、虚子が小諸から鎌倉へ戻ったのは、昭和22年10月のことであった。
 掲句の「中堂」とは、不動ヶ岡不動尊總願寺のことで、真言宗智山派の関東三大不動と称する寺院である。埼玉不動岡からはるばる小諸にやってきた樝子会員に対する、虚子の心配りであり挨拶である。かつて虚子は不動ヶ岡不動尊總願寺を訪れ吟行したことがあったかもしれない。
 
 句意は、中堂への道はすこし下り坂になっているので地面を見ながら歩いていると、坂道に落し文を見つけたという。「鶯の落し文」「時鳥の落し文」とも呼ぶ。