第六百二十六夜 高柳重信の「虹の絶巓」の句

 高浜虚子の小説に「虹」がある。俳句の弟子でもある森田愛子が病気になって母の住む福井県三国へ戻っていた。虚子は、「ホトトギス」六百号の記念大会に地方を回っていたが、その途次、見舞い方々愛子居に立ち寄った。師・虚子にむかう純な心を物語にしたのが「虹」。
  浅間かけて虹のたちたる君知るや
  虹たちて忽ち君の或る如し
  虹消えて忽ち君の無き如し(「虹」の一節)
  
 「千夜千句」第二百六十六夜では、その時の「虹」を書いた。
 
 今宵は、「虹」の句を『山本健吉 基本季語五〇〇選』講談社から紹介してみよう。
 
■1句目

  身をそらす/虹の絶巓/処刑台  高柳重信 『蕗子』
 (みをそらす にじのぜってん しょけいだい) たかやなぎ・しげのぶ
 
 この作品は、次のように表記される。
 
  身をそらす虹の
  絶巓
      処刑台
      
 この3行の分かち書きによる効果で虹の丸さを感じ、さらに、女性の愛の姿態が彷彿される。この多行形式とかリグラムの表記法(文字を絵画的に配列する表記法)を用いて暗喩によるイメージの重層化を図り、視覚効果をもたらしている。
 
 高柳重信は大正12年東京小石川の生まれ。早大俳句研究会で、富沢赤黄男に師事。戦後の昭和33年、前衛俳句運動の中核的役割の「俳句評論」を創刊、編集長。後半生を俳人中村苑子と生涯を共にする。

■2句目

  をさなごのひとさしゆびにかかる虹  日野草城 『昨日の花』
 (おさなごの ひとさしゆびに かかるにじ) ひの・そうじょう

 日野草城の作品で最初に知った句は、〈ところてん煙のごとく沈みをり〉である。東京生まれの草城は、幼年期を朝鮮で過ごし、大正7年、単身日本に戻り、京都三高(京都大学)入学し、大正9年、鈴鹿野風呂(すずか・のぶろ)とともに「京大三高俳句会」を結成。朝鮮で過ごした草城は日本家庭の風習や食物が珍しく、野風呂夫人の作った心太(ところてん)にすぐさま20句出来たという1句である。草城俳句は、写生句を進めていた大正後期のホトトギスで、モダンな異彩を放つ才気煥発ぶりであった。
 
 京都では日野草城の「京大俳句会」、東京では水原秋桜子の提唱により「東大俳句会」が生まれ、富安風生、山口青邨、中田みづほ、山口誓子、高野素十、赤星水竹居などが「ホトトギス」発行所で虚子の元で研鑽した。インテリ青年層らによる、昭和初期のホトトギスの第二次黄金時代を築いた。
 
 昭和8年には、秋桜子が「ホトトギス」を離れ、俳句は新興俳句の時代となった。草城は「俳句研究」に新婚初夜を描いた連作「ミヤコ・ホテル」を発表したが、無季の作品も含まれていたことから、虚子は草城を「ホトトギス」同人除名の処分をした。
 戦後の昭和30年、草城は「ホトトギス」同人復帰した。
 
 掲句は、草城の第3句集『昨日の花』集中の作。まだ幼い亜子を抱いて散歩であろう、子は虹を見上げて、「あれ、なーに」と聞いた。お父さんの草城は、「あれはね、にじっていうのだよ」、子は「にじ、っていうの?」と言いながら人差し指を虹にさしだした。
 お父さんから見ると、おさなごの指はちょうど虹にかかって、触れんばかりであった。
 なんという、やさしい視線であり視点の俳句であろうか。

■3句目

  虹なにかしきりにこぼす海の上  鷹羽狩行 『平遠』
 (にじなにか しきりにこぼす うみのうえ) たかは・しゅぎょう

 雨が上がった海の上に、虹が大きく懸かった。作者の鷹羽狩行氏は感動の面持ちで海を眺めている。じっと見ていると、海の上の波であろうか、きらきら光を跳ね返しては輝いている。
 「虹なにかしきりにこぼす」が、どういう情景なのか気になった。
 虹は、海に虹の7色を落としたり7色を映し出したりできるのか分からない。だが美しい虹を見、雨後の海面の波がきらきらしていると、狩行氏は虹がこぼした色が煌めいているのかもしれないと思ったのだろう。
 
 「しきりにこぼす」の措辞が、華美でない客観描写であることによって、逆に、読み手には虹の煌めきの欠片がこぼれてくるような錯覚を与えたのであろう。