第六百三十夜 与謝蕪村の「草いきれ」の句

 「草いきれ」とは、夏草の叢が、炎日に灼かれて、むせるような匂いと湿気とを発するのをいう。「草いきり」「草の息」とも言い、「いきれ」とは、蒸されるような熱気である。
 「草いきれ」または「草いきり」などとして、江戸時代の歳時記には挙げていないが、例句が出始めていたという。明治になって、正岡子規がまとめた『分類俳句全集』には「草いきり」の項に蕪村の〈草いきれ人死をると札の立〉など挙げている。
  
 犬のノエルの散歩は、夜の担当が私。このところの猛暑の厳しさは応えるが、夜風があったり星が出ていたり、そしてこの頃は、日中の太陽に灼かれた草の匂いがまだ残っている。ネコジャラシ、カヤツリグサなど腰の丈ほどの草が、季語では夏も秋も混じってト、草いきれを放っている。
 草の匂いが好きなノエルは、乾いた草の上にゴロンゴロンと転がっている。
 
 今宵は、「草いきれ」の作品を、『山本健吉 基本季語五〇〇選』講談社からみてみよう。

■1句目

  草いきれ人死にをると札の立  与謝蕪村 
 (くさいきれ ひとしにおると ふだのたつ) よさ・ぶそん

 猛暑や飢饉の年には、昔は、家を追われ川辺や橋の下に避難する人、死に絶えてしまう人も多かった。牛車に乗った貴族が息も絶え絶えの人を横目にムチを鳴らして通り過ぎた映画の場面を思い出す。
 現代ならば、通報して救急車が来てくれるが、江戸中期の蕪村の時代では違った。「人が死んでいます」という立札を作って、地面に横たわった死者の側に立てたという。
 「草いきれ」は、生い茂った夏草の匂い、現代のアスファルトとは違う地面の土の匂い、そして死に絶えてしまった人の匂いが混じり合ったものである。

■2句目

  草いきれさめゆく園の夕かな  池内友次郎 
 (くさいきれ さめゆくそのの ゆうべかな) いけのうち・ともじろう

 池内友次郎は、明治39年、東京都麹町生まれ。音楽家。高浜虚子の次男で、長いことフランスに留学していた。虚子は、父方の池内でなく祖母の実家の高浜を継いだが、友次郎は父方の姓の池内を継いだ。昔は、跡継ぎのことで名字にこうしたことはあったようだ。
 俳句は、フランスから「ホトトギス」に投句していた。昭和10年4月号の巻頭作品の〈雪の夜の物語りめく寺院かな〉は、私が1番に覚えた池内友次郎の作品。

 友次郎の作だから、450もの緑地があるというパリの公園として鑑賞してみよう。音楽家として作曲の勉強でパリに住んでいる友次郎は、勉強で疲れた時、曲の発想を得たい時など、真夏の公園を歩き回ったのではないだろうか。
 句意は、広い公園にはたくさんの花が植えられていて、真夏の昼間の強い日差しに蒸されたような草いきれの匂いも、夕方になると褪めている、そのような園の夕べでしたよ、となろうか。
 
 友次郎留学中の昭和11年、父の高浜虚子は、息子に会いにゆくためもあったが、虚子は、六女章子を同伴して大型客船の箱根丸で、4か月に及ぶ初めてのヨーロッパ旅行をした。虚子の『渡仏日記』には、4か月の旅が細かに書かれているが、フランスのマルセーユに着いて、友次郎の下宿で過ごしたほぼ1か月のことは書かれていない。
 長い間離れていた息子友次郎との会話を、大切にしたのだろうと思った。

■3句目

  草いきれ貨車の落書き走り出す  原子公平 
 (くさいきれ かしゃのらくがき はしりだす) はらこ・こうへい

 原子公平は、大正8年、小樽市生まれ。「馬酔木」「寒雷」を経て、沢木欣一・細見綾子と「風」を創刊。社会性俳句を推進。昭和48年、「風樹」を創刊・主宰。

 句意は、草いきれの中を走る列車。この列車には子どもが悪戯をしたのだろう、落書きが目立つように書かれている。その落書きに書かれていたのは「貨車」の絵だ。貨車の落書きの描かれた貨車が、田畑の中を悠々と走っているという。
 子どもの悪戯にしてはおおらかな「貨車の落書き」に惹かれた。