第六百三十一夜 原石鼎の「夜の秋」の句

 夏の季語「夜の秋」は、秋の季語「秋の夜」とは違う。夏も終わりになると、夜は涼味が増し、虫の音も聞こえはじめて、秋のように感じることを言うもので、俳人が生み出した季語なのである。
 
 俳句では、令和3年で言えば、8月7日の立秋以降が秋の季語「秋の夜」となり、夏の季語となれば8月6日までが「夜の秋」の季語で詠むことができる、ということになる。

 今宵は、「夜の秋」の作品を講談社『山本健吉 基本季語五〇〇選』から見てみよう。

■1句目

  粥すする杣が胃の腑や夜の秋  原 石鼎
 (かゆすする そまがいのふや よるのあき) はら・せきてい

 医者を志すも上手くいかない若き日、吉野の兄の診療所を手伝っていた時代、石鼎は「ホトトギス」へ投句するようになった。虚子に作品を認められ、「進むべき俳句の道」の1人として記事で紹介された。
 虚子からは「豪華・跌宕(てっとう)」の作品と言われた。「跌宕」とは細かなことにこだわらないのびやかな作品ということで、渡辺水巴、前田普羅、飯田蛇笏、村上鬼城、原石鼎という大正初期の「ホトトギス」の第1次黄金時期に活躍する、1人となった。
 
 掲句は吉野での作で、「深吉野の山人は粥をすすりて生く」の前書がある。投句した大正2年6月号の「ホトトギス」では、雑詠選の巻頭作品となった。同時作に〈花影婆娑と踏むべくありぬ岨の月〉がある。
 
 句意は、木材を切り出すなど吉野の山で働く人たちの食物は、現地で鍋いっぱいに粥を炊いて、朝も昼も夜も同じ粥を皆で食べていたと思われる。1日働いて、夕べになると、山中はことに涼しさが増す。秋の季節ではないが、秋のを思わせる温かい粥の情趣が「夜の秋」なのであろう。
 夏の夕べを「夜の秋」と詠んだのは、原石鼎が最初であり、高浜虚子が夏の季題としたと言われている。
 
■2句目

  簪屋と向きあふ寄席や夜の秋  宮武寒々
 (かざしやと むきあうよせや よるのあき) みやたけ・かんかん

 掲句は、その夜出かけた寄席の演芸場は、入口の道路を挟んだ場所に「簪屋」がある。寒々は、寄席に行ったのに簪(かんざし)の店に気づいた。もしかしたら、この日は粋筋の女性連れであったのかもしれない。寄席が終わったら「簪屋」に寄って、買ってあげようと思っていたのだろうか。
 昼間は暑かったのに、立秋も間近になると、夜風は涼しさを感じるほどだ。
 
 宮武寒々の「千夜千句」は第二百九十二夜で1度紹介しており、その中の〈櫛忘れし汽車雪原を細く去る〉の鑑賞に次のように書いていた
 この「櫛」は、作者自身が汽車を降りる際に置き忘れたとするのではつまらない。粋筋の女人と旅に出た帰り、女性の方が置き忘れたとするのはどうだろう。ともに乗りともに下りた汽車は出発し、雪原を黒く、だんだん細く遠ざかっていった、と。

 宮武寒々は、父の洋傘ショール店を継ぎ、大阪心斎橋の老舗「みや竹」の二代目の主人であった。仕事が終わる夜には、仕事仲間との付き合いが華やかだったのではないかと想像した。

■3句目

  西鶴の女みな死ぬ夜の秋  長谷川かな女 『秀句三五〇選 死』蝸牛社
 (さいかくの おんなみなしぬ よるのあき) はせがわ・かなじょ

 西鶴は、井原西鶴。江戸時代の大坂の浮世草子・人形浄瑠璃作者、俳諧師。代表作に『好色一代男』『好色五人女』などがある。
 
 『秀句三五〇選 死』の選著者である倉田紘文は、次のように鑑賞している。

 西鶴の描く享楽世界の好色物の女たちはその果にみな死んでゆく。作品の中の「死」は、死ぬことによって憐れさも哀れさも、美しい救いとなってゆくように思う。
 「夜の秋」のひんやりした感触が、いわゆる西鶴のもち味なのかもしれない。「みな死ぬ」にかな女の鋭さがうかがえる。と。

 3句を選んで紹介してみたが、どの句も季語「夜の秋」はさりげなく置かれているようであった。
 山本健吉は、秋を感じるのは主観であり、気分なのだから、科学的な厳密さよりも、詩人の詩情の上で、この季語は生きていればよい、としている。うーむ、なかなかややこしい!