第六百三十二夜 竹下陶子の「原爆忌」の句

 後になれば、早くしておけばよかった、止めておけばよかったという経験は誰にも、幾らでもあるだろう。
 今日、76年前の令和3年8月6日は、広島に原爆が落とされた日。
 そして原爆が広島に落ちる前の昭和20年7月26日には、ポツダムにおいて米・英・中(後にソ連も参加)の連合国が発した対日共同宣言がなされた。 それは、日本に太平洋戦争の降伏を勧告するとともに、戦後の対日処理方針を表明したものであった。
 
 だが、日本は速やかに降伏勧告に応じることはしなかった。
 その間、米国は原爆の開発がすでに終え、いつでも発射できる用意が出来ていた。
 日本はポツダム宣言受諾の返答を遅らし・・、
 米国は、原爆の効力を試してみたかった・・こともあろう。
 
 ついに、昭和20年8月6日、朝8時15分、米国の戦闘機B29エノラ・ゲイから、リトルボーイというウランによる核分裂を起こす広島型爆弾が投下された。
 そして、3日後の8月9日、米国側は広島の惨劇は承知の上で、2発目を長崎に落とした。予定では福岡県小倉へ投下の予定であったが、天候が悪く見通しが効かないことから急遽長崎市への投下となった。
 この2発目は、落とす必要はなかった。
 だが、米国は、もう1つをリトルボーイとは異なる原子爆弾を準備していた。
 長崎に投下されたのは長崎型爆弾ファットマンと呼ばれ、プルトニウムを内側に爆縮して核分裂を起こす原子爆弾だった。
 
 昨年の令和2年、私は長崎原爆資料館のビデオルームで、被爆記録の中の米軍機から撮影したきのこ雲を見た。
 戦争とは、良し悪しに関係なく、全てを記録しておくことを知った。8月6日に広島での大惨事を起こした直後に、それでも2発目を、異なる型の爆弾を試してみたかったという科学者や国家の怖ろしさも知った。
 
 日本は、ポツダム宣言を8月14日に受諾。
 8月15日、天皇が「玉音放送」により国民にポツダム宣言の受諾を公表したのは、連合国が発した対日共同宣言から20日も経ってからであった。
 この日が「終戦の日」である。
 
 今宵は、「原爆忌」の作品を見てみよう。
 
■1句目

  持ち古りし被爆者手帳原爆忌  竹下陶子 『ホトトギス 新歳時記』
 (もちふりし ひばくしゃてちょう 原爆忌) たけした・とうし
  
 竹下陶子(たけした・とうし)氏は、大正12年、島根県生まれ。島根県生まれ。昭和22年に虚子、昭和30年に年尾、現在は稲畑汀子に師事し、ホトトギスの同人となり、「青芦会」主宰者である。
 
 戦時中は広島市内で被爆して、それ以後は被爆者手帳を肌身はなさず持ち歩く人生になっている。原爆忌には毎年、改めて被爆者健康手帳を取り出して眺めているのであろう。もう戦後76年となるから、すっかり「持ち古りし被爆者手帳」になってしまっている。
 この古びた手帳が竹下陶子氏の丁寧に生きてきた証なのである。

■2句目

  朝雲のたかき静けさ原爆忌  下村ひろし 『現代俳句歳時記』角川春樹編
 (あさぐもの たかきしずけさ げんばくき) しもむら・ひろし

 下村ひろし(明治37年-昭和61年)は、長崎出身の俳人、医師。「馬酔木」の水原秋桜子に師事し、昭和22年に「棕梠(しゅろ)」を創刊・主宰する。長崎で医師として活動するなかで、被爆者の救済に務めた。
 
 長崎に原爆が投下されたのは、昭和20年8月9日の午前11時02分。当時の米国機から撮影された映像を、私は、長崎原爆資料館のビデオルームで観たが、これが原子爆弾が爆発した際の大きなきのこ雲であった。
 原爆忌のこの日、下村ひろしが見上げた空には勿論きのこ雲などはない。朝雲は立秋を過ぎたことを思わせるような高い空にあって、まことに平和な静かな空でありましたよ、となろうか。