第六百三十四夜 加藤楸邨の「蟷螂」の句

 石神井公園の近くに住んでいた頃のことだ。夕方になると、子どもは何やかや手に掴んで帰ってくる。その日は、3センチほどの白い泡の塊のついた小枝であった。初めて見るもので、美しい塊なので、玄関の靴箱の上にガラス瓶も置いて挿した。
 いいじゃない! ちょっとお洒落よね・・!
 母の私は、大喜びであった。
 
 数日後のことだ。あの事件が起きたのは・・!
 
 いつもの朝早い買物から戻り、玄関を開けると、まあびっくりした。小さな小さな薄緑色の虫がぞろぞろと靴箱の上から湧いて降りてくるではないか。よく見ると、虫は皆、カマキリの斧をちゃんと持っていた。頭は三角形をしていた。白い塊はカマキリの卵だったのだ。その泡の塊は「卵鞘(らんしょう)」と言い、1つの卵鞘に数百個の蟷螂の卵がいるという。それが一斉に孵化するのだ。
 当時、2人の子の母にはなっていたが、まだ30歳そこそこ・・虫たちとの交流は女の一人っ子の私には多くはなかった。
 
 今宵は、「蟷螂(かまきり)」「たうらう」「いぼむしり」の句を紹介しよう。
 
■1句目

  蟷螂のとびかへりたる月の中  加藤楸邨 『新歳時記』平井照敏編
 (とうろうの とびかえりたる つきのなか) かとう・しゅうそん

 「とびかへる」は「飛び返る」で、急いで元の所へ飛んで返るという意味であろう。
 下五の「月の中」とは、月の明かりの中、ということになるが、なんという素晴らしい措辞であろうか。カマキリの三角頭も前脚の斧もよく見える。月光に照らされているカマキリは、素早く向きを変え、どこかへ飛んで行ってしまった。
 
 舞台上の丸いスポットライトに照らされた、主人公・カマキリの姿である。

■2句目

  蟷螂は馬車に逃げられし御者のさま  中村草田男 『来し方行方』
 (かまきりは ばしゃににげられし ぎょしゃのさま) なかむら・くさたお

 この句には前書がある。勤労奉仕の地の福島から東京へ戻った。「再び独居。僅かの配給の酒に寛ぐことあり、灯火へ来れる蟷螂の姿をつくづく眺めて唯独り失笑することもある」と。その後、つぎのように補足、自解している。昭和20年、終戦の年の作である。
 「三角顎髭を生やしたような、いかつくやせた面貌、長靴で締め上げた長脚、腰の当たりだけを燕尾服まがいに膨らましている。わざと幅広にしつらえた皮鞭を打ちおろすための準備運動として後方へ振り上げはしたものの、肝心の打ち下ろすべき対象物が消えはてている。それは、日本人全体と私自身との『虚脱』の象徴物以外の何物でもなかった」と。
 
 句集で見たときから、獲物に逃げられた蟷螂の姿が見えてくる印象鮮明な作品と感じていた。草田男の自解によってよく解った。戦時中の斧を振り上げっぱなしの日本人全体が、終戦の詔勅を聞いた瞬間から、振り上げた斧を下ろすべき相手がいなくなったのだ。
 草田男は、蟷螂の姿を借りて、1つのパロディに仕立て上げた。

■3句目

  蟷螂の目に死後の天移りをり  榎本冬一郎 『現代俳句歳時記』角川春樹編 
 (とうろうのめに しごのてん うつりおり) えのもと・ふゆいちろう

 カマキリは、交尾前に雌が雄の顔や胸を食べ、交尾後には雄をすっかり食べてしまうという。このカマキリは交尾前に顔や頭を食べられ、交尾後に全身食べられてしまうという雄のカマキリであろう。交尾して食べられて、そうされながら雄のカマキリの目は死後へ移りゆく天界を見ていた。自らの定めをしっかり見つめていた、という句意になろうか。
 
 2年ほど前、私の住む茨城県立自然博物館で「狩」展を観た。恐竜時代から並べて展示されていたが、出口近くで出合ったのが写真の「大カマキリ」の上半身であった。その日に詠んだ句である。
 
  生きるとは他を喰らふこと秋暑し  みほ
  かまきりや三角形に見得を切り   々

 人間の多くは、現代では穏やかな顔をして過ごしているように見えるが、動物たちは本能のままなので凄まじい、迫力がある。だが、案外に動物の本能の姿が美しく見える瞬間があるような気がしている。