第六百三十五夜 下村ひろしの「原爆忌」の句

 今日、8月9日は長崎原爆記念日である。午前11時02分の黙祷にテレビを見ながら手を合わせた。その後ネットで検索すると、朝日新聞DIGITAL「ナガサキ・フィルムの記憶」の写真と出合った。
 
 もう50年前、私が3年間勤務した活水高等学校は、浦上川を挟んだ松山町にある平和公園の反対側にある。同僚と仕事帰りに散策した、この松山町の地に、米国は2番目の原子爆弾ファットマンを落とした。
 長崎市内へ繰り出して浜の町を歩く中で、原爆傷害調査委員会(ABCC)が公開した写真展に立ち寄ったことがあった。
 ABCCとは、広島・長崎の原爆被爆者における放射線の医学的・生物学的晩発影響の長期的調査を米国学士院-学術会議が行うべきであるとするトルーマン米国大統領令を受けて設立されたものである。
 
 この時ABCCで見た、54枚の写真の悲惨さ壮絶さは、目を背けたくなったほどであったが、その時に見た写真と、今日ネット上で見た朝日新聞DIGITAL「ナガサキ・フィルムの記憶」は同じであったように思ったが、64枚で10枚多いという。昭和20年に撮影されたもので、米軍が映した米軍資料カラー写真と朝日新聞社が撮影した写真とを合わせたものであった。米軍資料カラー写真は、昭和43年に日本へ返還されたという。

 今宵は、長崎の「原爆忌」の作品を紹介しよう。
 
■1句目

  消えぬ怒り消えぬケロイド原爆忌  下村ひろし 『ながさき句暦』  
 (きえぬいかり きえぬケロイド げんばくき) しもむら・ひろし

 掲句は、下村ひろし自身のことではなく、医師として患者として出会った人を詠んでいるのかもしれないが、原爆に遭い深く傷つき、身体にはケロイドが残っている人物を詠んでいる。
 「ケロイド」とは、火傷のあとにできる瘢痕組織(はんこんそしき)が過剰に増殖し隆起したものである。原爆傷害調査委員会(ABCC)が公開した写真展でも、朝日新聞DIGITAL「ナガサキ・フィルムの記憶」の中にも、顔のケロイドの女性や身体中のケロイドの男性が横たわっている姿を見た。
 
 そうした人の心の内は、「消えぬケロイド」に対する「消えぬ怒り」で渦巻いていたであろう。下村ひろしは〈年々に詠みてなほ詠む原爆忌〉の作品にあるように、長崎原爆忌のことは忘れようにも忘れられないことで、毎年、長崎に生まれ生きぬいた1人として俳句を読み続けた。
 
 下村ひろしは、明治37年-昭和61年、長崎市の生まれ。医師。長崎医科大学卒。在学中、田中田士英の指導で俳句を始める。昭和8年、「馬酔木」に入会し、水原秋桜子に師事。昭和22年「棕梠(しゅろ)」を創刊・主宰。終生まで長崎で活動したと見られ、初期より異国情緒のある句を詠む。昭和52年、第2句集『西陲集』により俳人協会賞を受賞。

■2句目

  凍焦土種火のごとく家灯る 下村ひろし 『石階聖母』
 (とうしょうど たねびのごとく いえともる) しもむら・ひろし

 原爆の落とされた後の浦上地区の冬の景だ。浦上地区とは、浦上天主堂があり平和公園のある松山町のことである。一面焼け野原であった地にもぽつりぽつり家が建ち始めた。夕には灯がともり、それは焦土に消え残った種火のようだと詠んだ。「種火」とは、いつでも着火できるように用意された火のことである。
 「凍焦土」に「種火」となる可能性を見ているところが、原爆投下を体験している長崎市民の心の内なのだろうか。
 
 この作品は、第百二十一夜でも紹介しているが、今日は長崎原爆忌なので再度の登場となった。