第六百三十六夜 杉田久女の「朝顔」の句

   一輪の朝顔             岡倉覚三
 
 花物語は尽きないが、もう一つだけ語ることにしよう。十六世紀には、朝顔はまだわれわれには珍しかった。利休は庭全体にそれを植えさせて、丹精こめて培養した。利休の朝顔の名が太閤のお耳に達すると太閤はそれを見たいと仰せいだされた。そこで利休はわが家の朝の茶の湯へお招きした。その日になって太閤は庭じゅうを歩いてごらんになったが、どこを見ても朝顔のあとかたも見えなかった。地面は平らかにして美しい小石や砂がまいてあった。その暴君はむっとした様子で茶室へはいった。しかしそこにはみごとなものが待っていて彼のきげんは全くなおって来た。床の間には宋細工(そうざいく)の珍しい青銅の器に、全庭園の女王である一輪の朝顔があった。
                     (『茶の本』村岡博訳 ワイド版岩波文庫)

 今宵は、「朝顔」の作品を紹介しよう。

■1句目

  朝顔や濁り初めたる市の空  杉田久女 『杉田久女句集』
 (あさがおや にごりそめたる いちのそら) すぎた・ひさじょ

 杉田久女の俳句が好きで、かなり追いかけていた。高浜虚子や松本清張や吉屋信子や田辺聖子の小説を読み、秋元松代の戯曲を読み、松本にある赤堀家の墓所に分骨されたお墓に詣った。
 久女が夫の杉田宇内と暮らした小倉は、軍都の様相を帯びていた。私の知っている小倉は、伯父一家が住んでいた町で、60年ほど前になるが、下関から連絡船で小倉に渡って遊びに行った記憶がある。小倉は、八幡製鉄所の町であったと思う。
 
 句意を考えてみよう。庭に丹精している朝顔を眺めている久女。朝顔の咲く早朝というのは朝曇りの濁った空の色である。「市の空」は小倉の町の空であり、久女は、わが庭から小倉の町の空まで、心遥かに眺めやっていたのであろう。
 
  紫陽花に秋冷いたる信濃かな  大正9年 
  朝顔や濁り初めたる市の空  大正13年
  白妙の菊の枕をぬひ上げし  昭和7年
  ぬかづけばわれも善女や仏生会  昭和7年
  風に落つ楊貴妃桜房のまゝ 昭和7年

 久女の代表作であるこれらの句の特長は、17文字が隙なく緊張が漲っていて、言葉に少しの無駄もない。虚子が、清艶高華で男性のような詠みぶりと褒める作品群である。

■2句目

  朝顔の大輪風に浮くとなく  深見けん二 『日月』
 (あさがおの だいりんかぜに うくとなく) ふかみ・けんじ

 摘花して、見事に咲かせた朝顔である。その中の大輪の朝顔を眺めていたとき、朝顔の花びらが浮いたように感じた。大輪の朝顔の花びらはやわらかい。ちょっと触れるだけでぐしゃっとなってしまう。それほどの柔らかさだから、花びらは風にふっと浮いたのかもしれない。
 
 「浮くとなく」は、じっと眺め、じっと考え、また眺めてを繰り返しながら、言葉として授かったものであろう。「重ねる、授かる」は、客観写生を長年実行している中で授かった信条であるという。

■3句目

  朝顔や百たび訪はば母死なむ  永田耕衣 『驢鳴集 』
 (あさがおや ももたびとわば ははしなむ) ながた・こうい

 句意は次のようであろうか。永田耕衣は毎年のように朝顔が咲く頃になると母を訪ねてゆく。百回も訪ねていけば母は死ぬだろう、となる。
 母の死を待ち望んでいるわけではない。「百たび」は、1年に1回訪ねるのであれば、母は百歳だから、長生きしてほしい気持ちもある。子は母に長生きしてほしいと思うと同時に、早死されたら嫌だという怖れも抱いているものだと思う。

 永田耕衣の俳句はむつかしい。20冊ほどの句集1つ1つを繙けば、難解な仏教語、哲学的な語、造語に溢れた句に出会う。だが、永田耕衣の常に自己改革し、言葉を開拓し詩魂を傾けた句々から、そのエネルギーの魅力に惹かれるように読み進めていくと、〈大晩春泥ん泥泥どろ泥ん〉というようなハッとする句にぶつかる。