第六百四十夜 山口誓子の「秋の雨」の句

 線状降水帯(せんじょうこうすいたい)は、「次々と発生する発達した雨雲(積乱雲)が列をなした、組織化した積乱雲群(せきらんうんぐん)によって、数時間にわたってほぼ同じ場所を通過または停滞(ていたい)することで作り出される、線状に伸びる長さ50 – 300 km程度、幅20 – 50 km程度の強い降水をともなう雨域」(気象庁が天気予報等で用いる予報用語)である。
 この線状降水帯が、九州の長崎に始まり、本州へ繋がり、テレビ画面で見ると、線状降水帯は雨の強さによって色分けされている。
 
 恥ずかしながら、「線状降水帯」という気象用語は初めて知ったように思うが、お前さんが知らなさすぎ、と夫に叱られる。NHKの朝ドラは「おかえりモネ」で気象予報士の話。上司は気象の話を丁寧にモネにしている。
 
 秋雨の降る頃には、何となくメランコリーになっていたが、そのメランコリックな気分は割と好きで、昔はレインコートや傘やブーツを楽しみ、雨音も楽しんでいた。
 
 今宵は、「秋の雨」「秋雨」の作品をみてみよう。
 
■1句目

 踏切の燈にあつまれる秋の雨  山口誓子 『新歳時記』平井照敏編
(ふみきりの ひにあつまれる あきのあめ) やまぐち・せいし

 踏切では、電車が来て通り過ぎるまで、遮断器は降りたまま。赤い燈が点いている踏切も警報を鳴らしつづけている踏切もあるが、私たち人間は踏切の前で、電車が通り過ぎるのを待っている。
 雨の夜は、燈に落ちかかる雨筋がよく見えるが、雨粒は、まるで踏切の燈を目がけて集まってくるかのように見えることがある。踏切だけでなく、雨の夜の犬の散歩の折など、電信柱の燈や街灯の燈にも雨粒があつまってくる。
 
 なぜだろうか。だが案外に単純な理由かもしれない。何故なら昼間でも雨粒の1つ1つは目に見えるわけではないが、夜の外燈の明るさでは、燈の間近の雨脚だったら見える、ということであろう。そこを「燈にあつまれる」と、誓子は見て取った。
 特別なことではない普通の当たり前のことが、俳句に詠まれたとき、新鮮な作品だと感じることがある。

■2句目

  秋の雨しづかに午前をはりけり  日野草城 『人生の午後』
 (あきのあめ しずかにごぜん おわりけり) ひの・そうじょう

 草城は、昭和15年の京大俳句弾圧事件の後で俳句界を引退していたが、戦後に周囲から励まされて復帰。昭和24年には桂信子らと主宰誌「青玄」を始めた。
 評論家の山本健吉が、草城を「極端な早熟型の、極端な晩成型」と評したが、そうだと思う。私は、初期の〈ところてん煙の如く沈み居り〉など、物の本質を捉えた斬新な作品が大好きで、素晴らしいと思っている。
 
 戦後の昭和21年肺結核を発症、昭和24年に退職して以後の10数年は病床にあり、これまでの新興俳句とは別種の静謐な句を詠んだ。昭和26年、緑内障により右目を失明。
 死の前年の昭和30年、虚子は草城の見舞いに「日光草舎」を訪れている。昭和11年に「同人除名」された草城であったが、その後除名処分は解かれて「ホトトギス」同人に復帰した。
 
 掲句は、肺結核となり病床にあった時代の作品であろう。句意は秋の雨がしずかに降っている中でずっと伏している草城。その草城にも午前が終わりましたよ、となろうか。だが午前が終わった草城には、午後があり、夜があり、明日へと続くのだ。

 昭和31年に、心臓衰弱のために死去するまでの10年間に亘る闘病生活から得た透徹した心境が、次の第7句集の『人生の午後』に見ることができる。 

  高熱の鶴青空に漂へり  
  切干やいのちの限り妻の恩  
  右眼には見えざる妻を左眼にて  
  常臥せば猫にも見下ろされにけり