第六百四十一夜 松尾芭蕉の「玉祭」の句

 今日8月15日は、盂蘭盆会(お盆)の中日である。私の夫の家は熱心な浄土真宗の信者で、私よりも夫の方が仏事のことはきちんと手配してくれる。
 私は、小学校からプロテスタントの井草教会に通い、青山学院高等部では、毎日30分のチャペルの時間があった。大学になると毎日の礼拝の時間はあったけど出席の義務はなくなり、毎回出席したのはクリスマスの行事だけであった。
 結婚後は、クリスチャンであった私は、宗教心とは、どこかみな同じではないかと思うようになっている。
 
 夫が1番大事にしているのは、お盆の行事。『瀬戸内寂聴全集』から「お盆」の一部を抜粋してみよう。
 
     お盆           瀬戸内寂聴

 「仏さんのいらっしゃる間は、いそがしいてかなわんなあ」
 そんなことをいいながら、年寄たちは嫁に教え、嫁は娘に教えて、精霊たちの接待の仕方や料理を覚えこませる。
 「十万億土からおこしになるんやから、喉がかわいてかなわんやろ」
 そんなことをいって年寄はほとんど仏前につきっきりで、日に幾度となくお供えの水をかえる。どこかままごとめいたそんなまつり方に、娘たちは案外素直に従っているようだ。物心ついた時から、お盆はそうするものと見馴れているせいなのだろう。
 
 今宵は、「盂蘭盆会」「魂祭(玉祭)」の作品を紹介しよう。

■1句目

  数ならぬ身とな思ひそ玉祭  松尾芭蕉 『有磯海』
 (かずならぬ みとなおもいそ たままつり) まつお・ばしょう

 掲句は元禄7年7月15日(旧暦)、伊賀上野の松尾家のお盆で作られ、「尼寿貞が身まかりけるときゝて」という前書がある。
 寿貞尼は、この年の6月2日、芭蕉不在の、深川芭蕉庵で死んだ。芭蕉が、寿貞尼の訃報を知ったのは6月8日で、京都嵯峨野の落柿舎に於いてであったという。
 
 句意は、かつて芭蕉の妾であった寿貞尼が亡くなったことを聞いて、芭蕉が「とるにたりない身であると思ってはいけないよ」と、寿貞尼に呼びかけたもので、この句を吟じて弔ったのですよ、となろうか。

 「数ならぬ身と」とは、とるにたりない身であると、の意。「な思ひそ」とは、「な~そ」は、禁止を表し、そんな風に思ってはいけない、の意。
 
 寿貞尼とは芭蕉の愛した女性であったが、芭蕉と結婚はせず、晩年に芭蕉を頼る。『蝸牛俳句文庫 松尾芭蕉』の編著者の赤羽学はこの句を、「寿貞の不幸を女性全体の運命と観じた句」であると述べている。